趣味としての学問大いに良し
哲学にせよ、法学にせよここは何でもいいのですが、趣味で文献読んでブログなりなんなり任意の媒体で発表してますというのは、胸をはっていいと思います。
本来学問は趣味だったはずです。それが職業としての学問になったので自由度が低下したのです。もちろん何かを公に公表するというのは責任が付随します。最初は必ずミスリードするもんです。でも、人間は進化するのでミスリードに気づくはずです。そのときまた変更を公表すればいい。それは恥ずかしいことではなく、どんな偉い先生でもやってることです。
最近の私はミスリードを恥じるのではなく、そこに創意工夫して新しい読み方を提示できるかどうかに重きを置いています。デカルトだって、カントだって、ハイデガーだって思い違いはあります。仮に学問が趣味ならそのミスリードを自分なりに面白く提示できてなんぼだと思います。
中世期、近世期の方が学問は自由だったと思いますよ。
今の私
長い間このブログを更新せずにいましたこと、またメッセージにお応えできなかったことに対して、非常に失礼いたしました。大変申し訳ないという気持ちでいっぱいです。
ここにきてブログを再開しだしたのは、新しい取り組みと中間に起こった命をめぐる戦いが起きていたからです。これまでのような学術的なものが書けるかどうかも怪しいですが、人生には色々なことが起きるんだということを理解して頂ければ幸いです。
まず、私の身に起きた災難ですが、意図せず熱中症を発症したままコンビニで買いものでもと出かけたら、見えないところで熱中症が悪化し、コンビニの店内で倒れました。ほとんど記憶がないというのが事実です。
意識喪失までに至り、ERの内科の先生に処置して頂いて「死」から「生」に引き戻されました。
ハイデガーの文脈でうるさいくらいブログで生と死を論じてきましたが、実際にその間に身を置いた今回の体験は忘れることはないでしょう。
今回の臨死体験を通してひとつハイデガーが話してないことがありました。それは哲学的死、科学的死、宗教的死を論じることで、この「生と死」は終わりだと思っていました。ところが現代社会においては、これらと同じくらい死を臨むとき、死を迎えたときに大きな要素が出てきます。それが「制度的死」とでも呼ぶようなものです。あくまでこの「制度的死」は私の臨死体験を少しまとめたに過ぎませんが、こうと思わせるには十分です。
死が近づくと救急車や医師、看護師、家族というキーワードが出来上がるのは思っていた通りですが、実はこの裏で病院の会計事務や保険適用か否かの事務手続き、入院に際しての保証人の確保、普段から行っている銀行などの振込手続き等々、病人にとってはもう何が何かわからなくなるというのが実感です。これは今の社会システムが意図する最善策を行使した結果でしょうが、それでも足りていないことは病人からすると「死ぬ前にあれをやらねば~」、「あれは売却して遺産として」等などベッドにいては死ぬことすら許されないのが実情です。後悔なく、意図したままの死などないのが日常だということになります。
問題は社会はこの人間の死に際しての利便性を図っているわけですが、残念ながら総務省がカード1枚で大丈夫!といったところで通用しないのです。死の側もそう簡単に総務省の手には落ちていないなと実感したところです。官僚としては、目的が市民生活の手続きの緩和だとしていても、死の前ではカードに死の烙印を押すことでしか利用性がない。「ゆりかごから墓場まで」大丈夫というのは嘘です。
死は死の中核に行けば行くほど勢いを増し、こうなるとできることは現状ある制度を単調でも追っていくほかありません。残ってしまった残余は、もはや死後家族や裁判所、救済機関に頼るしかないのが実情です。
錬金術
ニーチェを好きになれない人
ニーチェの作品には読むコツのようなものがあって、『悲劇の誕生』や『善悪の彼岸』などは普通に読めばいいのですが、その他の(力への意志は除く)作品のアフォリズムの部分は適当に読み飛ばしていいと思います。
というのも、ハイデガーはそういう奇怪な文体の部分まで読むのですが、ニーチェを普通に読もうとする人には邪魔になるからです。分からなくて当然ですし、分からない部分は後回しにして先へ進むのが良いと思います。
『ツァラトゥストラ』をどう読むかというのは永遠のテーマになるかもしれませんが、私はハイデガーと違ってあまりこの作品に重要性を感じません。ニーチェ自身もこの作品は柱廊であって本堂は『力への意志』だと述べてますし、ならば最初から『力への意志』へ行った方が早いと思います。問題は『力への意志』がニーチェ自身によって編纂されていないということです。この問題はハイデガーも執拗に編纂過程について述べています。
哲学書というと、慣れてない人は臆病になりますが、一回噛み付いたら慣れるものです。もはや哲学という言葉は抹消された世の中ですが、物事を整理する能力には寄与すると思います。
ベルクソン『笑い』
¥713
Amazon.co.jp
難しいことを徹底するベルクソンには珍しいタイトル。しかし、内容はベルクソン流の世界観が反映されています。よくイメージして読まないと何が言われてるのかが分からないと思います。
ベルクソンは笑いを分析し、笑いの要素を人間的なもの、笑うものの無関心、こわばりだと述べています。笑いのなかの人間的なものとは、笑われる対象が人間に集約されるもの。他方、笑うものの無関心とは笑うべき対象に無関心であること。そして、こわばりとは社会的しなやかさ(常識)に反対する動きであり、このときこわばりは笑いを示しています(笑いを社会の側からの懲罰とも考える)。
ベルクソンは、人間の精神や身体のこわばりが笑いに繫がると考えています。同意する部分もありますが、ベルクソン流の難解な用語、表現は難しいので何度も読み返すのが良いと思います。
ニーチェについて
私のなかのニーチェには四段階の革命があって、先程述べたのが第一段階、全ての著作を第三者目線で読んだのが第二段階。そしてハイデガーの『ニーチェ』が決定的な第三段階。最後にドゥルーズの「ニーチェ」となります。
第一段階はこんなに楽しい学問があるのかという爽快感が伴い、二段階ではニーチェのテキストに飲み込まれないように読みました。三段階ではハイデガーの影響が強く(ほぼ完全な読みだが)、形而上学との対決として読みました。ここでは物凄く得るものが多く、未だ私自身のスタート地点だと思っています。最後の四段階では、ハイデガーとは異なるニーチェ像を提供するドゥルーズの理論を検証しました。
結果的に私はハイデガーの解釈に有意義性を認めるのですが、ニーチェの作品のなかで有意義性のあるものは『力への意志』の他なにものでもないとすることに同意します。このことをハイデガーは、普通ニーチェの大作として『ツァラトゥストラ』を核に見立ててしまうのですが、『ツァラトゥストラ』は柱廊であり、最後に本堂として『力への意志』がくるという読み方が適切だと考えています。だからと言って『ツァラトゥストラ』の価値が下がるものではありません。『ツァラトゥストラ』と『力への意志』は、密接に関係しているということです。
ニーチェはオーヴァベックへの手紙で以下のように自分の計画を述べています。
「というのは、私のツァラトゥストラによって私の《哲学》ための柱廊を建てておいたから、いよいよこの《哲学》の竣功に次の五年間を費やす決心がついたからだ」①
それに対してハイデガーは、ニーチェの書簡集、草稿から以下のように簡単に、この時期のニーチェの言動に信用性があると考えています。
「真実には《ツァラトゥストラ》が思索的であるにおとらず、計画された主著《力への意志》もやはり詩的な著作なのである。二つの著作の関係は、どこまでも柱廊と本堂の関係である」②
確かに『悲劇の誕生』のようなニーチェ自身認める失敗もありますが、それはそれで問題となるのは何かという課題を解読するのは楽しいものです。しかし今読んでみて、ニーチェの哲学的な目標と時熟が初期作品で出てくるのには脱帽です。ニーチェは最初から哲学の問題の本質を理解していたと思います。
①②マルティン・ハイデガー著、細谷貞夫監訳、1997、『ニーチェⅠ』、p26、平凡社
ベルクソン『時間と自由』
¥907
Amazon.co.jp
本書は『意識に直接与えられたものについての試論』の英訳版。原典は原典の良さがありますが、この英訳版の方に重きを置くのが通例ですので、取り上げたいのはこちら。
事前知識なしで読めるというのがベルクソンの良いところだと思っていますが、本書もそれほど専門知識を求めていません。むしろ、初めて読書するというくらいで調度いいと思います。
結論から言えばカント批判なわけですが、これはデカルト批判と言っても良いかと思います。要するにデカルトは言うまでもなく、カントでさえ空間を重要視するからです。なぜ重要視されるかと言えば、その対象となるもの、イベントを空間に放り込んでしまえば点になり、流動性のないものになるから理論上空間座標の把握は重要となるのです。
しかし、このような数学的な点の集合とする発想をベルクソンは拒否します。人間の生として直接意識されるのは空間の点の拡がりではなく、決して空間には存在しない一連の流れなのです。そしてこのような流れとして常に変化している様態を「純粋持続」と呼びます。
そして、「純粋持続」を可能とするのが時間という基礎なのです。空間では把握できないということです。ベルクソンも述べていますが、空間が優位にあるのは、単に時間というもうひとつの大きな基礎を長らく忘れてきたからです。奇しくもベルクソンが戻るアリストテレスの時間論にハイデガーも挑戦しています。二人の時間論には差があるのは当然ですが、ベルクソンもまた哲学史家としては、ハイデガーに負けず劣らずの人物であろうと思います。
まとめると、ベルクソンは空間重視の哲学史を批判し、「純粋持続」と時間を掘り出し、空間認識の絶対性を退け、瞬間を生きている人間、あるいはその流れに自由を認めた(「純粋持続)。
こう簡略化してみると、改めてニーチェとの関係やハイデガーとの違いという大変大きな仕事が手付かずのまま残されたままであると思います。
フッサール『デカルト的省察』
¥1,015
Amazon.co.jp
フッサールによる名著。
フッサールによる作品のなかでも珍しいタイトルに内容。おそらく弟子のマックス・シェーラーやハイデガーを意識して書き上げています。
「感情移入」、「間主観性」、「他者」等の初期現象学に欠落してたいた重要な概念が再提出されています。この辺は以前にも紹介しましたが、シェーラーとハイデガーと対立、疎遠になってしまった部分です。
ただし、フッサールの前段述べた概念は、まだまだ問題を孕んでいて独我論として読むことも可能です。こうなると当然本書に対して批判的立場で読まなければなりませんので、事前知識は最低限必要だと思います。
特にタイトル通りデカルトを現象学の立場から考察しようというのが狙いですので、デカルトの原典は読んだ方がいいです。ここを怠けると本書が何を取り扱っているのかわからなくなりますから。
ロック『統治二論』
¥1,512
Amazon.co.jp
ロックの作品のなかで機軸となるもの。民主主義の根拠を説明する良本。
本書は今読んでも十分根拠となるような論理整合性の取れた作品ですが、それだけにボリュームが凄いです。
本書は二編から構成されているのですが、前半一編を飛ばして二編目からでも十分にロックの考える民主主義を理解できます。
民主主義の根本を知りたい人は必読の書でしょう。