Roscellinus Compendiensis -3ページ目

趣味としての学問大いに良し

 哲学にせよ、法学にせよここは何でもいいのですが、趣味で文献読んでブログなりなんなり任意の媒体で発表してますというのは、胸をはっていいと思います。

 

 本来学問は趣味だったはずです。それが職業としての学問になったので自由度が低下したのです。もちろん何かを公に公表するというのは責任が付随します。最初は必ずミスリードするもんです。でも、人間は進化するのでミスリードに気づくはずです。そのときまた変更を公表すればいい。それは恥ずかしいことではなく、どんな偉い先生でもやってることです。

 

 最近の私はミスリードを恥じるのではなく、そこに創意工夫して新しい読み方を提示できるかどうかに重きを置いています。デカルトだって、カントだって、ハイデガーだって思い違いはあります。仮に学問が趣味ならそのミスリードを自分なりに面白く提示できてなんぼだと思います。

 

 中世期、近世期の方が学問は自由だったと思いますよ。

今の私

 長い間このブログを更新せずにいましたこと、またメッセージにお応えできなかったことに対して、非常に失礼いたしました。大変申し訳ないという気持ちでいっぱいです。

 

 ここにきてブログを再開しだしたのは、新しい取り組みと中間に起こった命をめぐる戦いが起きていたからです。これまでのような学術的なものが書けるかどうかも怪しいですが、人生には色々なことが起きるんだということを理解して頂ければ幸いです。

 

 まず、私の身に起きた災難ですが、意図せず熱中症を発症したままコンビニで買いものでもと出かけたら、見えないところで熱中症が悪化し、コンビニの店内で倒れました。ほとんど記憶がないというのが事実です。

意識喪失までに至り、ERの内科の先生に処置して頂いて「死」から「生」に引き戻されました。

 

 ハイデガーの文脈でうるさいくらいブログで生と死を論じてきましたが、実際にその間に身を置いた今回の体験は忘れることはないでしょう。

 

 今回の臨死体験を通してひとつハイデガーが話してないことがありました。それは哲学的死、科学的死、宗教的死を論じることで、この「生と死」は終わりだと思っていました。ところが現代社会においては、これらと同じくらい死を臨むとき、死を迎えたときに大きな要素が出てきます。それが「制度的死」とでも呼ぶようなものです。あくまでこの「制度的死」は私の臨死体験を少しまとめたに過ぎませんが、こうと思わせるには十分です。

 

 死が近づくと救急車や医師、看護師、家族というキーワードが出来上がるのは思っていた通りですが、実はこの裏で病院の会計事務や保険適用か否かの事務手続き、入院に際しての保証人の確保、普段から行っている銀行などの振込手続き等々、病人にとってはもう何が何かわからなくなるというのが実感です。これは今の社会システムが意図する最善策を行使した結果でしょうが、それでも足りていないことは病人からすると「死ぬ前にあれをやらねば~」、「あれは売却して遺産として」等などベッドにいては死ぬことすら許されないのが実情です。後悔なく、意図したままの死などないのが日常だということになります。

 

 問題は社会はこの人間の死に際しての利便性を図っているわけですが、残念ながら総務省がカード1枚で大丈夫!といったところで通用しないのです。死の側もそう簡単に総務省の手には落ちていないなと実感したところです。官僚としては、目的が市民生活の手続きの緩和だとしていても、死の前ではカードに死の烙印を押すことでしか利用性がない。「ゆりかごから墓場まで」大丈夫というのは嘘です。

 

 死は死の中核に行けば行くほど勢いを増し、こうなるとできることは現状ある制度を単調でも追っていくほかありません。残ってしまった残余は、もはや死後家族や裁判所、救済機関に頼るしかないのが実情です。

錬金術

 巷では100万円が1億円になったとか、株は凄い青天井ということ耳にしますが、少しも私の人生にそのような大枚が関与したことはありません。父はサラリーマンと僧職を兼任してひたすら同じサイクルで仕事をし続けていました。母は執拗に何でもいいのでサラリーマンになって、ひたすら働け、健康保険証を頂けと言っていました。
 
 父が自分の人生に納得いかぬということは肌で感じていましたし、今まさに晩年の父はそれなりに肩の荷が下りたようで安堵しています。しかし、母の場合は少し違いいます。気性難に加えて、私のように目的が決まらねば先へ進めない人間にとっては最も話し合いにもならない。私から見れば、「人間こう感情的になったら終わりだよね」という理解になります。「健康保険証」を民間の企業から頂くことが人生の最良策だという発想も奇抜というにはいいのかもしれませんが、阿呆です。健康保険は自分の意志で加入して、負担金を支払って成立している制度。全てにおいて母は思い込みで成立し、それを他人に押し付けるわけです。これは私のような小市民にとっては暴力にしか見えません。
 
 母が私を何円の価値の人間と思っているか存じませんが、少なくともかなりチープな額面がでてくるでしょう。千利休所有の茶器なんか比べ物にならないくらい安い。おそらくスーパーマーケットで購入できる程度です。そんな人間にサラリーマンがいかほどの価値か存じませんが、なれといわれても面食らうのです。母が錬金術師なら話し合いの余地があるのですが…。

ステートメント

 わが国の首相のステートメントは、高校世界史A、B以下。何かを世界に発信するのであれば、歴史を正確に理解すること。それ以上の感慨はありません。

ニーチェを好きになれない人

 ニーチェは苦手という人は、ニーチェは素晴らしいという人より多いかもしれません。これは当然のことで、アフォリズムという文体で、徹底的にあらゆる尊いと思われてるものへ言葉攻めにする部分に嫌気がするのでしょう。私は少し前に述べたようにニーチェをフレッシュな哲学者と認めていたので読むことに苦労はしませんでした。

 ニーチェの作品には読むコツのようなものがあって、『悲劇の誕生』や『善悪の彼岸』などは普通に読めばいいのですが、その他の(力への意志は除く)作品のアフォリズムの部分は適当に読み飛ばしていいと思います。

 というのも、ハイデガーはそういう奇怪な文体の部分まで読むのですが、ニーチェを普通に読もうとする人には邪魔になるからです。分からなくて当然ですし、分からない部分は後回しにして先へ進むのが良いと思います。

 『ツァラトゥストラ』をどう読むかというのは永遠のテーマになるかもしれませんが、私はハイデガーと違ってあまりこの作品に重要性を感じません。ニーチェ自身もこの作品は柱廊であって本堂は『力への意志』だと述べてますし、ならば最初から『力への意志』へ行った方が早いと思います。問題は『力への意志』がニーチェ自身によって編纂されていないということです。この問題はハイデガーも執拗に編纂過程について述べています。

 哲学書というと、慣れてない人は臆病になりますが、一回噛み付いたら慣れるものです。もはや哲学という言葉は抹消された世の中ですが、物事を整理する能力には寄与すると思います。

ベルクソン『笑い』

笑い (岩波文庫 青 645-3)/岩波書店

¥713
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 難しいことを徹底するベルクソンには珍しいタイトル。しかし、内容はベルクソン流の世界観が反映されています。よくイメージして読まないと何が言われてるのかが分からないと思います。

 ベルクソンは笑いを分析し、笑いの要素を人間的なもの、笑うものの無関心、こわばりだと述べています。笑いのなかの人間的なものとは、笑われる対象が人間に集約されるもの。他方、笑うものの無関心とは笑うべき対象に無関心であること。そして、こわばりとは社会的しなやかさ(常識)に反対する動きであり、このときこわばりは笑いを示しています(笑いを社会の側からの懲罰とも考える)。

 ベルクソンは、人間の精神や身体のこわばりが笑いに繫がると考えています。同意する部分もありますが、ベルクソン流の難解な用語、表現は難しいので何度も読み返すのが良いと思います。

 

 

 

ニーチェについて

 ニーチェとの出会いはかなり若い時代でした。中学三年生から高校一年生にかけて必死に読みました。ニーチェの奇妙な文体(アフォリズム)などは、分からないなりに新鮮で授業中に机の上にニーチェを真似て落書きをしたもんです。

 私のなかのニーチェには四段階の革命があって、先程述べたのが第一段階、全ての著作を第三者目線で読んだのが第二段階。そしてハイデガーの『ニーチェ』が決定的な第三段階。最後にドゥルーズの「ニーチェ」となります。

 第一段階はこんなに楽しい学問があるのかという爽快感が伴い、二段階ではニーチェのテキストに飲み込まれないように読みました。三段階ではハイデガーの影響が強く(ほぼ完全な読みだが)、形而上学との対決として読みました。ここでは物凄く得るものが多く、未だ私自身のスタート地点だと思っています。最後の四段階では、ハイデガーとは異なるニーチェ像を提供するドゥルーズの理論を検証しました。

 結果的に私はハイデガーの解釈に有意義性を認めるのですが、ニーチェの作品のなかで有意義性のあるものは『力への意志』の他なにものでもないとすることに同意します。このことをハイデガーは、普通ニーチェの大作として『ツァラトゥストラ』を核に見立ててしまうのですが、『ツァラトゥストラ』は柱廊であり、最後に本堂として『力への意志』がくるという読み方が適切だと考えています。だからと言って『ツァラトゥストラ』の価値が下がるものではありません。『ツァラトゥストラ』と『力への意志』は、密接に関係しているということです。

 ニーチェはオーヴァベックへの手紙で以下のように自分の計画を述べています。
「というのは、私のツァラトゥストラによって私の《哲学》ための柱廊を建てておいたから、いよいよこの《哲学》の竣功に次の五年間を費やす決心がついたからだ」①

 それに対してハイデガーは、ニーチェの書簡集、草稿から以下のように簡単に、この時期のニーチェの言動に信用性があると考えています。
「真実には《ツァラトゥストラ》が思索的であるにおとらず、計画された主著《力への意志》もやはり詩的な著作なのである。二つの著作の関係は、どこまでも柱廊と本堂の関係である」②

 確かに『悲劇の誕生』のようなニーチェ自身認める失敗もありますが、それはそれで問題となるのは何かという課題を解読するのは楽しいものです。しかし今読んでみて、ニーチェの哲学的な目標と時熟が初期作品で出てくるのには脱帽です。ニーチェは最初から哲学の問題の本質を理解していたと思います。

①②マルティン・ハイデガー著、細谷貞夫監訳、1997、『ニーチェⅠ』、p26、平凡社

ベルクソン『時間と自由』

時間と自由 (岩波文庫)/岩波書店

¥907
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 本書は『意識に直接与えられたものについての試論』の英訳版。原典は原典の良さがありますが、この英訳版の方に重きを置くのが通例ですので、取り上げたいのはこちら。

 事前知識なしで読めるというのがベルクソンの良いところだと思っていますが、本書もそれほど専門知識を求めていません。むしろ、初めて読書するというくらいで調度いいと思います。

 結論から言えばカント批判なわけですが、これはデカルト批判と言っても良いかと思います。要するにデカルトは言うまでもなく、カントでさえ空間を重要視するからです。なぜ重要視されるかと言えば、その対象となるもの、イベントを空間に放り込んでしまえば点になり、流動性のないものになるから理論上空間座標の把握は重要となるのです。

 しかし、このような数学的な点の集合とする発想をベルクソンは拒否します。人間の生として直接意識されるのは空間の点の拡がりではなく、決して空間には存在しない一連の流れなのです。そしてこのような流れとして常に変化している様態を「純粋持続」と呼びます。

 そして、「純粋持続」を可能とするのが時間という基礎なのです。空間では把握できないということです。ベルクソンも述べていますが、空間が優位にあるのは、単に時間というもうひとつの大きな基礎を長らく忘れてきたからです。奇しくもベルクソンが戻るアリストテレスの時間論にハイデガーも挑戦しています。二人の時間論には差があるのは当然ですが、ベルクソンもまた哲学史家としては、ハイデガーに負けず劣らずの人物であろうと思います。

 まとめると、ベルクソンは空間重視の哲学史を批判し、「純粋持続」と時間を掘り出し、空間認識の絶対性を退け、瞬間を生きている人間、あるいはその流れに自由を認めた(「純粋持続)。

 こう簡略化してみると、改めてニーチェとの関係やハイデガーとの違いという大変大きな仕事が手付かずのまま残されたままであると思います。

フッサール『デカルト的省察』

デカルト的省察 (岩波文庫)/岩波書店

¥1,015
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 フッサールによる名著。

 フッサールによる作品のなかでも珍しいタイトルに内容。おそらく弟子のマックス・シェーラーやハイデガーを意識して書き上げています。

 「感情移入」、「間主観性」、「他者」等の初期現象学に欠落してたいた重要な概念が再提出されています。この辺は以前にも紹介しましたが、シェーラーとハイデガーと対立、疎遠になってしまった部分です。

 ただし、フッサールの前段述べた概念は、まだまだ問題を孕んでいて独我論として読むことも可能です。こうなると当然本書に対して批判的立場で読まなければなりませんので、事前知識は最低限必要だと思います。

 特にタイトル通りデカルトを現象学の立場から考察しようというのが狙いですので、デカルトの原典は読んだ方がいいです。ここを怠けると本書が何を取り扱っているのかわからなくなりますから。

 

ロック『統治二論』

完訳 統治二論 (岩波文庫)/岩波書店

¥1,512
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 ロックの作品のなかで機軸となるもの。民主主義の根拠を説明する良本。
 
 本書は今読んでも十分根拠となるような論理整合性の取れた作品ですが、それだけにボリュームが凄いです。

 本書は二編から構成されているのですが、前半一編を飛ばして二編目からでも十分にロックの考える民主主義を理解できます。

 民主主義の根本を知りたい人は必読の書でしょう。