Roscellinus Compendiensis -4ページ目

市川浩『ベルクソン』

ベルクソン (講談社学術文庫)/講談社

¥1,350
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 著者のベルクソンへの情熱が凝縮された内容。非常に好意的に受け入れられます。

 前半でベルクソンの人生と著作物を簡単にトレースし、後半で「抄訳」された原典を読むという構成。巻末の索引も非常に扱い易いので、忘れてしまった用語もすぐに見つかります。

 ベルクソンを知らない人が読むと、前半で多少混乱(イメージできない)するかもしれませんが、後半の「抄訳」でイメージできるようになると思います。

 本書は間違いなくベルクソン解説書の頂点にあると思われるので、ベルクソンのどの著作から読もうかとお悩みの方は、まず本書を一読してから決定されるのが良策かと思います。

思い上がり

 長年ハイデガーと向き合ってきて、最近は少しハイデガーに違和感をおぼえています。この違和感は、私だけでなく著名な研究者も同じようなことを述べていますが、ハイデガーには少し自己愛な部分を感じます。自己愛というにはもっと酷く、自己溺愛と言い換えた方がいいかもしれません。

 この溺愛は初期になればなるほど酷い。というのも研究者のなかで「kehre(転回)」という部分から溺愛ぶりは収まり、逆に誰にも何も発信しなくなり、理解を押し付けるという文体が消えていきます。この「kehre」というのは何かということは、非常に難しい議論になるので割愛しますが、ともかく初期のハイデガーは押し付けがましく、中後期になるとそれが影を潜めるということです。

 押し付けがましい最高の作品が『存在と時間』です。ここでハイデガーは本来的自己に戻って生きようというのです。簡単にこの部分をトレースしますが、人間は世間に頽落して非本来的自己として生きているが、それは本来の人間のあり方ではなく、人生の最終点である死を見つめなおして、その上で自覚的に自分と世間との関わりを矯正すべきだというけです。つまり何らかの解脱を求めるわけです。

 これほど押し付けがましい理論があるでしょうか?私もそうでしたが、ハイデガーを読んでいると頷くことが多くなり。完全に精神を支配されてしまいます。逆に言えばそれだけ魅力的だということです。カントに人生は左右されませんが、ハイデガーには簡単に人生の道筋を照らし出されるのです。ハイデガー自身はカントにも人生を、文化、歴史を支配する大きな力があると考えるわけですが、普通の一般市民には分からないことです。

 このようにハイデガーの負の側面を述べてきましたが、人間誰しも押し付けがましい時期はあります。それは先が見えてなかったり、才能だけで生きてみたり、孤独であったりと色々な要素が出発点になりえます。

 それが一般市民であれば誰かが注意するなり、誰にも相手にされなくなってくるにしたがって自覚的に自分の言動、行動を自粛するなりでよいのです。何も大仰に非本来的自己から本来的自己へという一般化の道を辿る必要はありません。

 いつかハイデガーの『存在と時間』を巡る負の側面をまとめないといけませんが、今回は道標にはなったかと思っています。

 

 

POISON 『Open Up & Say Ahh』

Open Up & Say Ahh/Capitol

¥1,354
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 POISONのアルバムのなかで一番POISONらしいと思います。POISONのようなグラムロック、あるいは商業ミュージックに賛否両論あると知っていますが、ハリウッドの輝きを見て感じるには一番いいと思います。

 曲についても駄作ではありません。自分でギターでコピーしてみると「え!簡単過ぎる」と思いましたが、じゃあ簡単なPOISONの曲を作れと言われたらお手上げです。そういう上手さがあるということです。

 音楽なのであくまで個人の嗜好性の問題になりますが、たまにはハリウッドスタイルをという方はぜひ聴いてみてください。

デリダ『グラマトロジーについて』

グラマトロジーについて 上/現代思潮新社

¥4,104
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グラマトロジーについて 下/現代思潮新社

¥4,104
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 脱構築を語る上で外せないデリダの作品です。『エクリチュールと差異』よりもデリダのスタンスが分かり易いと思います。分かり易いと言いましたが、デリダの提案を全て読みきるのは大変です。そこは読者に努力を強いることになるでしょう。挫折したらそこで終わりです。

 挫折しないために何が必要かと問われれば、何も必要ありません。ニーチェ、ハイデガーの形而上学批判を知っておくのは効果的だと思いますが、本書の中で学ぶことで知識を補完することは不可能ではないと思います。

 本書でデリダが批判しているのはソシュールなどの音声中心主義であるのは明々白々です。この辺は誰が読んでも理解できます。書き言葉であるエクリチュールよりも話し言葉であるパロールの方がより根源的、あるいはエクリチュールは代理の関係、あるいはそもそも根源的ではない。

 ヨーロッパではプラトン以降ずっとパロールを重要で起源とし、エクリチュールというのはあってもパロールの二次的産物でしかないということでした。少々乱暴にまとめましたが、デリダは本書でプラトン以降のヨーロッパ文化、思考形態が隠したエクリチュールの根源性、重要性を説明しているのです。同時に思考=音声という仕組みを転倒させることによって、プラトン以降の形而上学の見直しを計ります。

 これらのパロールの優越する価値観、世界の中にデリダはエクリチュールの存在を指摘します。パロールの中にエクリチュールの痕跡を見て取るわけです。そうすることでパロールの一義性は揺れ始め、エクリチュールの存在が表に表れるようになります。ここで重要なのは、デリダがエクリチュールの優位性を提案し、パロールの存在を貶めるという簡単なものではないと言うことです。

 二項対立で満足するのであれば、パロールの前提に実はエクリチュールが存在すると言えば済むのですから。そうではなく、デリダは常にパロールの優越に対してエクリチュールがパロールの中に顔を出しているというわけです。ここが曖昧だという指摘はこれまで長い間言われてきましたが、最も脱構築とは何かということが現れていると思います。決していずれかの優位性を念頭には述べられていません。

 本書では他にレヴィ=ストロース、ルソーに言及しているのですが、ここでは代補(代理)の関係の考察が行われています。思考の代補は音声であり、音声の代補はエクリチュールだというものです。形而上学ではこの代補、代理の関係が抹消されていたのですが(真理は多義性は認めない)、デリダはこの関係を積極的に認めます。

 多少難しい話になりましたが、脱構築というデリダの言葉だけが先走っているのは事実です。一方に組するグループが反対勢力の抹消するための道具として脱構築は存在しません。そうではなく、デリダの頭にあるのは一義的な価値をもったものなどありはしないということです。

 長くなりましたが、日本語訳の本書の値段が高め設定なので買うには勇気が必要かもしれませんが、デリダが脱構築でどう考えているか知りたい人は必ず読むべきだと思います。

70年談話

 「70年談話」とは何でしょう?なぜ戦後70年になって、改めて首相が談話(この語句に問題がある)を発表しなければならないのでしょうか。

 一般的に節目の年に談話を発表する習慣のようですが、今更何を言いたいのか、対象国が何を望んでいるのかさっぱりわかりません。中国、韓国、東南アジアの対象国は、節目だからと謝罪を求めるのでしょうが、お互いに過去のことよりこれからの関係の方が重要でしょう。

 過去の謝罪すべき点については、東京裁判で戦争犯罪者は裁かれています。同時にサンフランシスコ講和条約で、世界に復帰することを許されました。ですから戦争犯罪者は裁かれたので、今日本で生きている市民は先の戦争に関わってはいません。お年寄りの方は関わってる可能性があるじゃないかと言われるかもしれませんが、それなら裁判で裁かれてるはずです。

 私個人としては、全く戦争と関わりがありません。負い目もありません。戦後処理というのは、もう果たされているはずです。でなければ戦後の手続きの意味がありませんから。これからいよいよまた戦争やるぞ政権下でも無関係を貫きます。

カント『プロレゴメナ』

 プロレゴメナ (岩波文庫)/岩波書店

¥907
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 カントの作品です。非常に簡単に『純粋理性批判』を説明、あるいは補足しています。大作『純粋理性批判』の序論的扱いですが中身は非常に手厳しいです。

 序論と言いましたが、時系列では『純粋理性批判』の初版の後に書かれています。初版本の公刊後の異論反論、各種反響を踏まえて書かれている分、問題の中心が何であるかというのは、『純粋理性批判』より分かりやすいかもしれません。

 個人的には『純粋理性批判』を読もうとする前に読んでおいて損はないと思いますし、本体の分量に挫折した場合も本書が補完してくれるのでいいと思います。

 これは著作物の読み方の定義に繫がると思いますが、著作物は必ずしも時系列で読まないといけないということはないと思います。なぜなら著者のミスライティングというのは確実に常にあることであり、ミスに公刊後気付くということがあるからです。ですから本書のような書き直された序論のようなものは、ミスした箇所を訂正して論理的整合性をとっている可能性があるということから、時系列では後でも先に読んでおく方が良いということになります。

デリダな人

 実はデリダな人は苦手です。お前が一番のデリダ好きではないかと言われそうですが、ここで断っておきたいのはデリダの言葉には警戒してきました。今、もうこの世にはいないデリダにはさらに警戒しています。

 なにを警戒しているのか。デリダの言うように考え、行動する、つまりデリダをトレースすることが危険だからです。それは不必要な争いに発展し、結果的に自分もただではすまない。
 
 脱構築とはデリダの暴力に対する非常装置なわけですが、それは思想上の核兵器なのですから脱構築を発動すれば自分も脱構築されることになれます。こんな簡単なことに普通なら気付くわけですが、世の中の人はデリダの残した遺産(負の遺産でもある)を振り回してそこらじゅうで脱構築しています。

 私としてはこのようなデリダな人に脱構築されないために逃げるしかありません。デリダレーダーなんかが発明されれば幾ばくか楽になるのですが、そんな冗談も通じないのがデリダな人なのです。

 ハイデガーを研究してたら、物凄い男前の先生が考えもしなかった解釈を提供してくれた。それがデリダ本人です。若さゆえの過ちだったのか、研究本体のハイデガーを放ってデリダのテクストを読み耽りました。全てが新しく、それであって芯のある文章。必死に読みました。そして、気付いたときにはデリダな人になっていました。

 本当に多くの人にデリダな人になってから迷惑もかけました。デリダ本人が書き残していることですが、デリダのテクストはデリダの死をもってから勢力を増し、そのテクストの筆者は幽霊となって常に不安に陥れる。

 これはまずいですね。私は幽霊に怯え、浮遊する(根をもたない)テクストに不安感を覚えました。デリダな人を止めるために色々試してみましたが、ドゥルーズなんかではとてもデリダな人から抜け出せないのです。

 そして、最終的に私がデリダな人を抜け出せたのは、デリダな人同士で戦い合うのではなく、またデリダな人ではない人に助けてもらうことでもなく、沈黙することでした。もうデリダな人を卒業するには黙るしかなかったのです。

 デリダな人とデリダは無関係です。この命題の意味を理解するのは簡単ではありませんが、幽霊としてのデリダとデリダな人は近しい関係かもしれません。

三権分立

 間違いなく日本は危ない方向に向かっています。憲法学のオーソリティーの知見を無視した国会運営、国民の意思を問わない政府の暴走。フランス的に言えば「革命前夜」。

 槍を持て!刀を磨け!という暴力に対する暴力の発動。各国の革命を詳細に読んでいると、意外にも革命と言うのは急激に達成されています。だからといえ、抵抗権を旗印に血なまぐさい革命を市民を巻き込み推し進める考え方には反対します。暴力に対する暴力は正義なのではなく、暴力の席移動にすぎない。しかし、日本においては憲法裁判所もなければ、市民の意思が直接行政府に反映される装置もない。

 もっと言えば市民にも状況を打破しようとする意思が弱いように思えます。古臭い利権絡みの政党政治が行われているからです。本来国政を任されるのは、国民から選ばれた良識ある代議士なわけですが、単なる地域の利益代弁者に過ぎないのが現実です。

 しかし、日本という国が危ない領域に足を踏み出したことは否定できない事実。これをどのように処理し、反対勢力が合法的にこれを飲み込むのかが見物でしょう。

 ドイツの場合、最悪な道筋を歩んできました。憲法裁判所の国外への派兵は合憲だという判決です。これで多くの人が二次大戦、湾岸戦争の不参加の国内外の不評を払拭できたと考えたというと、そうではありません。半数以上の人が派兵、空爆参加に反対しています。議会でも反対派への造反が増大し、賛成派と拮抗するようになっています。

 政府が派兵したい、あるいは派遣したいなら、派兵や派遣可能な地域を明確に決定すべきですし、明文化することが市民への礼儀です。

 私はかねてから憲法裁判所を創設すべきだと述べてきましたが、憲法裁判所という特殊な政府にも市民にも平等な関係をもたらす機関の創設前に乱暴にまとめあげられたなという徒労感でいっぱいです。

 どんな人でも憲法の関係条文を読む限り暴力的な解釈だというのは明白です。ここからが勝負です。日本の市民の良識が問われるわけです。覆さないといけない。現行ルールでは行政府にアドバンテージが与えられていますが、そのような障害を乗り越えて正義という方向を見ないといけない。

高橋哲哉『デリダ (「現代思想の冒険者たち」Selec』

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)/講談社

¥1,620
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 言わずと知れたデリダ解説書の初級版。デリダ研究者の著者ができる限り客観的にデリダの思想(もはや哲学という用語は不要)をトレースすることで、読者に難解なデリダのテクストを紹介しています。
 
 デリダという思想家は、ドゥルーズ同様に読むものであり、書くものではないというのは通念ですが、著者は上手く構成し重要な概念を整理していると言えるでしょう。
 
 デリダをあまり知らない人は、プラトンから暴力や正義、法へ向かうデリダを上手くトレースできないものですが、本書は主要概念をできる限り簡単に説明しています。その点では非常に良本と言えるでしょう。

 問題を挙げるならば、デリダの概念が成立する現場まではトレースできていませんし、後半生のデリダの思想をカバーできていません。

 しかし、デリダを初めて読む人にとっては羅針盤となるはずです。

台風

 週末連休の頭を押さえ込む台風ですね。ただ、私の感覚ではそんなに降ってない気がします。もちろん、台風独特の蒸し暑さはかなり感じますが。

 こういうときは引きこもって読書です。こういう時期なのでライト感覚で読める哲学書をということで、ベルクソンの『笑い』を挙げておきましょう。

 中身については、また明日にでも。