ニーチェについて | Roscellinus Compendiensis

ニーチェについて

 ニーチェとの出会いはかなり若い時代でした。中学三年生から高校一年生にかけて必死に読みました。ニーチェの奇妙な文体(アフォリズム)などは、分からないなりに新鮮で授業中に机の上にニーチェを真似て落書きをしたもんです。

 私のなかのニーチェには四段階の革命があって、先程述べたのが第一段階、全ての著作を第三者目線で読んだのが第二段階。そしてハイデガーの『ニーチェ』が決定的な第三段階。最後にドゥルーズの「ニーチェ」となります。

 第一段階はこんなに楽しい学問があるのかという爽快感が伴い、二段階ではニーチェのテキストに飲み込まれないように読みました。三段階ではハイデガーの影響が強く(ほぼ完全な読みだが)、形而上学との対決として読みました。ここでは物凄く得るものが多く、未だ私自身のスタート地点だと思っています。最後の四段階では、ハイデガーとは異なるニーチェ像を提供するドゥルーズの理論を検証しました。

 結果的に私はハイデガーの解釈に有意義性を認めるのですが、ニーチェの作品のなかで有意義性のあるものは『力への意志』の他なにものでもないとすることに同意します。このことをハイデガーは、普通ニーチェの大作として『ツァラトゥストラ』を核に見立ててしまうのですが、『ツァラトゥストラ』は柱廊であり、最後に本堂として『力への意志』がくるという読み方が適切だと考えています。だからと言って『ツァラトゥストラ』の価値が下がるものではありません。『ツァラトゥストラ』と『力への意志』は、密接に関係しているということです。

 ニーチェはオーヴァベックへの手紙で以下のように自分の計画を述べています。
「というのは、私のツァラトゥストラによって私の《哲学》ための柱廊を建てておいたから、いよいよこの《哲学》の竣功に次の五年間を費やす決心がついたからだ」①

 それに対してハイデガーは、ニーチェの書簡集、草稿から以下のように簡単に、この時期のニーチェの言動に信用性があると考えています。
「真実には《ツァラトゥストラ》が思索的であるにおとらず、計画された主著《力への意志》もやはり詩的な著作なのである。二つの著作の関係は、どこまでも柱廊と本堂の関係である」②

 確かに『悲劇の誕生』のようなニーチェ自身認める失敗もありますが、それはそれで問題となるのは何かという課題を解読するのは楽しいものです。しかし今読んでみて、ニーチェの哲学的な目標と時熟が初期作品で出てくるのには脱帽です。ニーチェは最初から哲学の問題の本質を理解していたと思います。

①②マルティン・ハイデガー著、細谷貞夫監訳、1997、『ニーチェⅠ』、p26、平凡社