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カフカ『審判』

 

 

 カフカ文学の金字塔にして、世界の名著。

 

 高度システム社会に生きる人間に対するカフカの警鐘。

 

 自覚的であれ、無自覚であれ制度が人を越えてゆくと、こういうことも起こり得るという実に奇怪なストーリー。

 

 文学を目指す人はもちろん、現代人は一度は目を通すべき作品だと思います。もちろん、『変身』のような短編もカフカ文学では重要ですが、初めに推奨するのは『審判』の方。翻訳も素晴らしいので一気に読めます。

危険なインプット

 少子化が進むにつれて門戸が開かれるかと思っていた難関大学では、逆に偏差値が上がりハードルが高くなっています。一方、下位大学はさらに偏差値が下がり高等教育機関としての運営が厳しいというのが実情です。

 

 この現象は簡単なことで「いい大学」を卒業すれば、「いい企業」に入れるという信仰によるものです。これは日本だけではなく、アメリカやヨーロッパではより高度な学歴社会となっています。

 

 しかし、企業の側も学歴というだけの危険なメルクマールを採用の基準にしてはいません。偏差値に見合う知識を詰め込んだとしても、それをベースに応用発展させてアウトプットできなければ戦力して計算できないからです。ですから、上位大学になればなるほどこのアウトプットの能力が合否の判断材料にされます。

 

 いうまでもなく、知識だけの「いい大学」の人は否定されるでしょう。知識を取り込むだけで受け入れてくれるような甘い社会ではなくなったのです。インしたものはアウトできないとバランスの取れた人材とはいえないのです。

 

 永遠に採用側と採用される側は戦うことになりますが、現状採用側がただの「いい大学」の人を避けているのは事実です。他方でアウトプットできる人は即戦力としての期待値が高い需要の高い存在として扱われます。

 

 要はインプットの容量ではなく、そこそこのインさえあればアウトプットする能力さえ伴えば通用する社会だということです。

悲しき酷暑

 暑いです。日本中、世界中が暑さにうんざりしています。

 

 そんな状況でも人は考え、行動します。余儀なくされている側面と、主体的な自由と考えられる側面がありますが、暑さに負けない能力を人間はもっていると思います。もちろん、熱中症対策が前提のことです。

 

 クロード・レヴィ=ストロースという文化人類学者は、フランスからブラジルに渡り大学で教鞭をとる一方、熱帯雨林で考え行動しました。未開民族の文化の考察に人生を費やしたわけです。アグレガシオンに合格し、コレージュ・ド・フランスで教授となる人物もまた暑さのなかで人生を模索していたという事実は認めざるを得ません。

 

 暑さ、心身にダメージをもたらすことは確かですが、回避策を取りつつ向き合うのもまた大事だと思います。こうも暑いとついカッとなりがちですが、そこは我慢してこの暑さを乗り切りましょう。

平和

 ウクライナ問題について、沈黙をしてきましたがひとこと。

 

 どの国、どの民族に限らず平和にこしたことはないと思います。プーチン氏のように「平和ボケした弱い隣国があるなら、この手で動乱を起こし強者の国にしてやる」というのは、思い違いも甚だしい。現代では当たり前ですが、一発退場ものです。

 

 ロシア兵士、ウクライナ兵士双方かなりの犠牲者をだしていますが、世界史はこれらを乗り越えて共存共栄の道を模索し、多数の犠牲を払って現代の平和を掴んだはずでした。

 

 時の為政者、強権を揮える者にとっては一兵士、一市民の命など取るに足らない数字かもしれませんが、いつの時代も戦乱で被害を受けるのは何も罪のない「人」です。

 

 平和を享受していることに我々は誇りをもつとともに、戦乱を一刻も早く終息させることに個々人ができる限りの努力をすべきです。

 

 それは核兵器に対して核兵器を供与することではなく、別の方法を模索すべきでしょう。なぜなら、暴力に対して暴力を対峙させても憎しみの弁証法が完成してゆくだけだからです。

 

 左派でも右派でも関係なく平和は貫き通すべき理想であり、歴史的事実です。憎しみの連鎖を回避し、共存の道を探し続けることが寛容かと思います。

 

 

システム

 以前に救急車で搬送され入院した記事を書きました。そこで「制度的死」について言及しています。

今の私 | Roscellinus Compendiensis (ameblo.jp)

 

 この制度というものは死に限らずあらゆるシーンで顔を覗かします。物を買うとき、電車バスに乗るとき、電気を使うとき等々、全てこれらは社会の側で取り決められた制度です。ですから、人間は生きるには制度から逃れることはできません。

 

 ハイデガーはこのような様態を「被投的投企」という言葉で説明していますが、まさに人間は世界に投げ出されているのです。そして、この世界とは高度に制度同士が織り込まれた社会だということです。

 

 しかし。このような制度が人間の人生に圧倒的に機能するなら、人間は生き方を間違うこともありませんし、後悔をすることもありません。ハイデガーのいう「被投的投企」とは、最後の「投企」が示すように制度の連関に没入している主体が自覚的になり、己の在り方を制度の側に投げ返すという意味が込められています。これを制度への抗いと読むかどうかはハイデガーは語りませんが、間違いなく制度に投げ出されているという状況から、制度へ向き合うという意味に読み取れます。

マルティン・ハイデッガー『存在と時間 上』 | Roscellinus Compendiensis (ameblo.jp)

マルティン・ハイデッガー『存在と時間 下』 | Roscellinus Compendiensis (ameblo.jp)

思い上がり | Roscellinus Compendiensis (ameblo.jp)

 

 逆説的にいうならば、制度から自覚的に主体の在り方を人間は引き受けられるので間違いもすれば、成功もするのです。後悔は制度のしがらみから主体を取り戻したという証です。

 

 問題は自覚的になっても制度の連関に生きるということです。これは否定できませんし、ハイデガーも「投げ出されつつ投げ返す」という表現に終始し、ある種の制度からの解脱を推奨はしません。

 

 20世紀初めでさえ制度の連関から抜け出すことが困難であったのに、現代のような高度に制度化された社会で人は自覚的になれるでしょうか?私は少々このことに悲観的なのですが、突破口はあると信じています。

 

亡霊

 さて、今この真っ白なフォーマットに何を書くべきか考えています。書いては消し、書いては消しの繰り返しです。

 

 デリダはエクリチュール(書き言葉)について面白いことを述べています。書くという行為は、そのまま読むという行為に変化し、書き手は読者になりテキストは書き手を失って浮遊し、永遠に書き手は幽霊としてテキストに顔を出すというのです。最初このことをどう咀嚼すべきか悩みましたが、よくよく考えるとその通りだと思います。

 

 このことはブログにせよ何にせよ、書く行為を行うなら誰にでも生じることです。書くことそのものが常に先行すると考えても、同時的に書き手はテキストの読者になるわけです。もう少し考察を先に延ばすなら、書く行為はそれ自体考える行為なのです。なぜなら、書き手は常に考えながらテキストを書いているからです。ですから、デリダのいうように純粋な書き手などいないのです。

 

 そして、書き手の存在を感じるにはテキストに付随している署名という「痕跡」を道標にするわけですが、この「痕跡」はもはや書き手と読者を結ぶ懸け橋のようなものではなく、テキストを読む際に厄介な幽霊のようなものとして存在します。読者は永遠に原-書き手には辿り着きません。読者が意味付けを行おうとするまさにそのときに、厄介な幽霊という存在者として顔を出すのです。正すわけでもなく、認めるわけでもなく、指示するわけでもなく…。

 

 このようなデリダ的な書く-読むの関係に正しさを求めるのは、いうまでもなくナンセンスです。なぜなら、デリダのテキストもまた「痕跡」を認めるに過ぎないからです。

 

 そして、私もまた今日幽霊になったということになります。

錯誤

 自身や集団の存在感を際立たせるためにあえて敵を作るというシーンがありますが、こんなことでしか存在意義を示せないのは所詮三流以下です。

 

 それは依然としてヘーゲル主義やマルクス主義を脱せてない阿呆なふるまいです。これを続けていたいい例がオウム真理教などのカルト宗教、集団だというのは類推するに容易であろうと思われます。

 

 ジェニュイン、つまり本物とはそれ自体の輝きをもって存在するのものです。逆にいうなら、だからこそ反証されようが、アンチテーゼを提示されようが右往左往することはありませんし、敵対存在それすら許容するのです。

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抽象

 人間が人生を全うするには、創造力と行動力が必要になります。個の有する地平を創造力によって拡大、変化し、それを可能とすべく具体的な選択、行動によって完成させていくという営みです。しかし、最近の三十代以下にはこの創造力と行動力、実践力のバランスをとれている人が極めて乏しいというのが実感です。

 

 原因は色々と考えられますが、一番大きい要因は教育とマスメディアの在り様だと思われます。そもそも学問そのものが創造力を可能とする抽象力をないがしろにし、具体的事実の把握と選択の方法論に固執している部分に問題の根はあります。こうなると自動的に個に求められる能力は創造力ではなく、本来創造力を支えるはずの行動力に限定されます。言い換えれば、目的価値を失った手段価値の優位性が生まれたわけです。当然、学問教育の側でこのような無目的な価値観の優位性が樹立されると、社会全体が無目的になり、表現は悪いですが社会に寄生するマスメディアも具体的価値ばかりを追うことになります。結果、社会全体に創造力を欠いた実践力だけの価値観が蔓延し、ただ目の前の選択に囚われる個を作ってしまうのです。

 

 小説を読むとき、あるいは映画を観るとき、芝居に接するとき、それぞれ一応の結末をもって終焉するわけですが、それは時間と空間の有限性によってなされるピリオドなわけで、完全な終わりを意味するものではありません。読者、観衆の創造力によって補完されてやっと終焉を迎えるのです。云々の終わりだったけど、本当は云々の意味や展開があったのではないかと想像するように芸術というものは創造されています。しかし、この創造力=想像力が現代人、特に三十代以下には乏しい。目の前の選択は早いが先がない。つまり、創造力を極めて要請する表現力を欠くのです。

 

 表現というものは具体的な事実に言及しながら、創造を抽象します。この抽象という能力が人類の誇りなのです。具体的事実を列挙し、それに対し判断を加え、取捨選択をするというのは比較的自動的にできるので容易です。ただ、それだけでは何も新しい価値や世界は産まれません。それは既存の世界で限界点を探す営みにすぎません。そうではなく、有限な世界から無限に拡がっていく世界を作り出すために何が最善かを考え、選択してゆくべきなのです。

 

復元

 お久しぶりです。bloghiro-diveが戻ってまいりました。この間色々なことが身辺に起こり、また思索も進展したのかあらぬ方向ににいっているのか判断がつきませんが変化しています。

 

 ブログの顔にデリダをお借りしていますが、これも変えないといけないのかもしれません。よくよく考えると、お顔を拝借とは失礼ですよね。それほど敬愛していたことの現れなのですが…。本音をいうと、デリダの遺産を超えること、デリダの先へ向かうこと、デリダと離れて生きることは不可能だと思い込んでいました。しかし、世間というものへ没入すればするほど、実践の行使に迫られて思索というものが後付けになることに気付いたわけです。病気、毎日の生活、職務、義務etc.。

 

 陽明学では知行合一といいますが、理論に実践が一致するなど実際の世界では稀でしょう。カントにおける純粋理性と実践理性の乖離状況を挙げるまでもありませんが、ヨーロッパの歴史は常にこの乖離状況の止揚にあったともいえます。ですから当然、私ごときの人生でこの乖離状況をどうにかできるわけもなく、五里霧中を歩き続けているというわけです。

 

 おそらくこのブログは、bloghiro-diveの備忘録として機能すると思いますが、たまに過去のように何かを提示するかもしれませんし、過去に言及するかもしれません。しかし、過ぎ去った過去を掘り出したところで、その残滓に耳を傾けることができるだけです。これはデリダのいうところでもあります。不毛。ですから、このブログに過度の期待をせずにお付き合いいただければ幸いです。