Roscellinus Compendiensis -5ページ目

土曜日

 土曜でした…。何もせずに終わりそうです。

 まあ、それでも生き残ったのですから明日に引継ぎたいです。

杉元伶一『就職戦線異状なし』

就職戦線異状なし (講談社文庫)/講談社

¥545
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 こちら就職活動が舞台の小説ですが、織田裕二さんで映画化されています。まさに戦場。就職活動を笑いに変えるようなところは筆者の経験なのか想像力なのか。

 そんなにページ数のあるものでもないので、ちょい読みの方にはお勧めです。
 
 地味に面白いので、就職活動を経験済みの方も現在進行形の方にもピッタリくるかもしれません。

アドルノと否定

 ヨーロッパの歴史は否定と同一化という乗り越えの歴史だったと言えます。プラトンにせよアリストテレスにせよ、混沌とした現実を否定してクリアにし、別の概念なり抽象概念に統一するわけです。

 このとき重要なのは、何事かを否定し統一してただ「見る」ことが人間の思考とか思惟という様態だということです。つまり、テオリア(観想=contemplation)がヨーロッパの至高の思考だということを指しているわけです。反対に現実的な実践(行動)、制作は(生産)は、別の概念とされます。ここは微妙なので説明が必要なのですが、アリストテレスは実践を倫理的、政治的行動に限定し、制作はそれとは異なる詩的な人間の行動様態に収斂されます。そして、ハイデガーにおいて決定的に思考という隠された真理へのアプローチは、詩作とか思索という言葉で呼ばれることになります。

 ここにおいてヨーロッパの思考の歴史はただ「見る」ことに留まるのです。ハイデガーは存在そのものにかけられているヴェールを取ることが存在へのアプローチだと意味深な表現をするのですが、ハイデガーもまたアリストテレス同様「ただ眺める」のです。

 なぜテオリアがここまで重要視されるようになったのでしょうか?それは真理というものが、すでに否定できない形で在ることをそれぞれの哲学者が気付くからです。しかし、それはすでに制作の行動の下にあるからであり、観察者の手が入っているので根拠はありません。だから、それは眺められるように命令することで存在し続けるのです。

 これはデカルトに顕著なように、真理というのものは最初にあってそれを人間がミスリードしないようにすることが最重要視されるのも、真理というものが眺められるために在るという世界観に依ります。そして、眺められるように実施されるのが制作であり、眺める態度がテオリアだということです。この点でアリストテレスは全ての哲学者の先駆者といえるでしょう。そして、制作(ポイエーシス)がハイデガーの後期に重要になってくるのです。いわゆる思索=詩作。この意味では、プラトン、アリストテレスから始まる歴史を解体すると言い放ったハイデガーもアリストテレスの世界観に引き戻るのです。

 ヘーゲルはどうでしょう?弁証法によって初期概念は否定され、その後止揚されて最初のものとは異なる概念をヘーゲルは見ます。しかし、これは上手い嘘です。真理は一度否定されるものの、止揚された真理とはここでは否定される前の真理と否定する真理のミックスだということです。つまり、何も変わってない。アイデアは優れているものの足りないのです。

 ハイデガーは言うに及ばず、ヘーゲルにおいても否定を掲げながら肯定に至ってしまったのがヨーロッパの思考です。その思考は元々真理や存在そのもがそこにあったかのように人を魅了し、その思考は真理の絶対的肯定に突き進みます。カントでさえ、真理の外にあるものは「物自体」だと言い真理と限定されたテオリアを主張します。

 これらの歴史を眺めるだけに限らず、転倒させようとしたのがアドルノです。特にアドルノの異質な思考が際立っているのが『否定弁証法』です。否定して成立した概念に至高性を与えるヘーゲルの弁証法自体を否定しようというのが本書の狙いです。大胆に言うなら、何も整理することもひとつにまとめる作業はいらないし、必要ではないというのがアドルノの主張です。

 一即多、多即一を認めないのです。アドルノはそれを「非同一的なもの」と呼んでいますが、まさにアドルノは統一概念を否定し、個々が結び付けられないように監視するわけです。常に弁証法とは否定精神に依らねばならないと。

 しかし、このアドルノの戦略に問題もあります。あくまで否定して否定して同一化を避けるという態度そものがテーゼになったり、真理になることです。ですから、アドルノの否定弁証法とは、あくまで同一性が頭をだしてきたらそれを打つというような形で存在することになります(存在そのものも否定されるが)。

 また、アドルノは弁証法をプラトンに見、ヘーゲルまでその弁証法は全く同一のものだと批判します。これを「肯定的な本質」と呼び、これを否定的にすることが同一化を避ける最善の方法であり、弁証法を肯定的なものから否定的なものへ解放するのだと述べています。しかし、先程も述べたように否定することを正しき態度すると、避けねばならない同一化と摩り替わるだけになります。なので、アドルノの打ち出した反同一化、否定弁証法というものは、非同一化に貢献するのであり、それ自体が真理や存在そのものというものではないということになります。あくまで同一化の方向に向かわないということです。そして、非同一的にあらねばならない。これがアドルノのヨーロッパの思考を相手にしたときの姿勢です。

 これはナチスのホロコーストに大いに影響を受けているとは明白ですが、仮にホロコーストが歴史上なくともアドルノの態度は変わらないでしょう。つまり、思考なりテオリアなりが成立する状況にさせないのがアドルノのスタンスだからです。ギリシャ=ヨーロッパ的な思考を否定するのがアドルノの目的意識なのですが、絶えず否定が否定であろうとする様態に留めるのがアドルノの考える弁証法です。それは静かでも、ヴェールに覆われているのでもなく、常に動き続けているのです。

 思考といいましたが、思考そのものがギリシャ=ヨーロッパ的な特異なもので、それが決定的に弁証法を肯定的な、全てを統一し整然と同一化するものだとアドルノは考えています。カントにせよヘーゲルにせよ彼らは一見、真理に対して否定的な側面を見せますが、それはアドルノにとってみれば、否定することで何かを肯定するという意味で肯定的な立場に安住し、テオリアにいるわけです。
 

BLUE MURDER

ブルー・マーダー/USMジャパン

¥1,851
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 文句なし。アイデアが豊富な上に、技術がしっかりついていってます。これを聞かずに現在垂れ流されている退屈なモノ=商品に群がるなど気が触れているとしかいいようがありません。BLUE MURDERは、決して商品で終わらないのが魅力なのです。

 3ピースでここまでの圧倒的支配感を示されたら即降伏です。ともかく本作品の中のどの曲も秀逸。決してフォロワーには真似ができません。

お天気

 梅雨ですね。ムシムシ、ベトベト。エアコンのない世界なんて考えられません。以前にも指摘、批判しましたがエアコンの温度を28℃設定にしたところで温暖化を止めることはできません。むしろ、地球上の至る所の戦争を止めさせる方が地域の温度低下に繫がるでしょう。

 そんな戦争を止めることに目を塞いで、28℃設定なんて作業効率を悪くする運動を半ば政府が主導するというのには納得できませんし、納得しません。

休日

 本日はPCの修理に時間を忘れ没頭していました。たまにはこういう作業に没頭するのは心に良いかもしれません。

 結論的に言うと、CPUの問題でした。メモリを足して多少サクサクはするようになりましたが、重いアプリケーションを同時に立ち上げるとストレスを感じます。

 ただ、このPCはタブレット気分でジャンク品で1万円で買って、手直ししたものなのであまり義務感をもたせるとかわいそうです。

 ビル・ゲイツもこんな風にPCと遊んでたのでしょうか?なんとなくそうであって欲しいと思います。

アダム・スミス『道徳感情論』

道徳感情論 (講談社学術文庫)/講談社

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 『国富論』はスミスのポジションを見るに相応しい著作ですが、敢てそこではなくスミスが社会がどうなっているのか、人間はどういう生き物なのかを論じた『道徳感情論』を見てみましょう。

 スミスは人間がどのような存在者に還元されるかを考察します。そこで基礎として現れるのが利己心(self-interest)です。人間は自分の利益のために活動します。これが資本主義を支える原動力だということはお分かりかと思います。レッセフェール社会でスミスの経済感が妥当性をもつのはこのためです。

 しかし、経済活動を神の見えざる手(invisible hand)によって調停しよう、されるんだと言ったのもスミスです。こうなると、人間は利己心の塊で欲望を満たすまで突っ走るが、最後は神によって調和的世界に落ち着くという、なるほど予定調和説としてネガティヴなイメージをもたれるでしょう。そういう国富論のマイナスイメージも本作から読めば少し違ったイメージを受けるし、本書の後『国富論』で何が言いたかったかは少しクリアになります。

 さて、問題の核心は人間の利己心の調停です。利己心を上手く理論付けることなのです。そうすることで、『国富論』の下地が出来上がることになります。

 先程から利己心、利己心と煩く書いていますが、これは『国富論』に直結する概念なので良く把握しておく必要があります。だからと言って、哲学的な抽象論だと構える必要もありません。この点で、スミスは非常に現実主義者です。神の調停を引き合いにだしても…。

 人間の基礎には利己心があり、それが競争を生む。これは現代でも同じです。人よりもより給料が欲しいと欲するのはスミスの時代もまたそうなのです。しかし、この競争する利己心だらけで、利己的な社会などありはしません。ここまで言うと気付かれた方もおられるでしょうが、スミスはどうすれば競争と平穏が両立するのかを考えたわけです。

 確かに人間は利己的だが、他方で他者にシンパシーを感じることもできます。同情や同感ができるということです。ここで重要なのは、シンパシーの主役は単純に主観、主体という存在者ではなく、第三の存在者(公平な眼差し)だということです。単純に考えると主体→シンパシー→他者なわけですが、スミスは主体→第三の存在者→シンパシー→他者か、主体→第三の存在者×シンパシー×他者だと考えるわけです。

 少し抽象的になったので整理しますが、スミスは何らかの判断の物差しに第三の公平な眼差しに見、またそのような判断の蓄積を「一般的諸規則」と呼び、これが以後の判断の指針と考えたわけです。結果、根源的に利己心とされた人間は、この「一般的諸規則」によって軌道修正されながら、争いごとも減少すると考えられるのです。

 こうしてみると、スミスは利己心である人間が、同情や同感を通じてコミュニケーションし、そこに争いのない社会を見て取るのは案外楽だったかもしれません。「神の見えざる手」と神を出さずとも本書を引き伸ばせば、調和的的社会の構造を描くのに苦労はしなかったはずです。

 現代との比較で言うならスミスに分が悪いですが、個体から全体像を描いている分にはスミスの方が上をいってるのかもしれません。残された問題は、自分の中にある第三の存在者(声)の説明と、それに重きを置きすぎるという点でしょう。しかし、本書が『国富論』の基礎になっているのは事実で、本書を飛ばして『国富論』というのはアプローチとして難しいと思います。逆に本書から『国富論』へ行くのは案外楽です。

社会主義と共産主義

 意外に分かってるようで理解されていない政治制度。簡単に言えば私有財産を廃止して社会のものとして考える体制。

 こういうと共産主義と同じではないか?という疑問が出ますが、誤解を恐れずに言うと同じです。要するに資本主義から共産主義への間にある体制です。ですから、マルクス主義のテーゼである資本主義の発展から社会主義体制に移行してゆく必然性をマルクス主義では「科学的社会主義」と呼ぶのです。ここで重要なのは、資本主義から社会主義へ移行し、最終的に共産主義へ辿り着くことの必然性です。なのでマルクス主義では、その必然性を担保に社会主義を共産主義化の一段階と捉えているわけです。

 マルクス主義の目線で見ると、社会主義体制下では労働者は労働に応じた対価を受け取るとされています。マルクス及び、マルクス主義者が私有財産を国有化していても社会主義をブルジョワ的と揶揄するのは、共産主義における富の分配、すなわち生産力が確実に確保されている体制における高次の富の分配とは似て非なるものだからです。

 マルクス主義から見れば、このように社会主義には未だ資本主義の労働対価という古いシステムが残されているので共産主義への入り口に過ぎないわけです。

 マルクス主義的共産主義と社会主義のいずれが進歩的で、正しいかなど分かりません。それは市民の決定することです。進歩的という言葉を使いましたが、マルクス主義にとっては社会主義は資本主義体制からの進歩という点では進歩的なのです。

 マルクス主義、共産主義にとって、社会主義とは資本主義の脱線に過ぎないということです。そして、この図式のレジティマシーはマルクス主義者をもってして来るべき共産主義体制への入り口の開く程度の扱いを受けるということです。

 これまで見てきたように、意外に社会主義=共産主義=マルクス主義と捉えがちですが、社会主義政権と共産主義政権の間には大きな溝があるのです。もちろん、このような見方はあくまでマルクス主義に依存するわけですが…。

ユーロかドラクマか?

 いよいよ先行きに暗雲が見えてきたギリシャ危機。マスメディアはやたら「危機」を煽っていますが、これはアルゼンチンのケースと同じ。
 
 アルゼンチンの場合は、ドルペッグ制を停止したことが功を奏し以後の経済成長に繫がるのですが、ギリシャの場合どうでしょうか?アルゼンチン同様に一度ユーロから離れて自国通貨ドラクマに戻るのか。

 現状の預金は恐らくユーロ建て預金からドラクマに換金されるので、さらに銀行から預金を引き出す行動は加速するでしょうし、アルゼンチンがそうだったようにしばらくは経済成長は数字に出てこないでしょう。しかし、アルゼンチンの自立を鑑みると、最初低い位置で経済状態が安定し、やがてステージがどんどん上昇するという見立ても成立するように思われます。

 私見ではギリシャ危機を食い物にしているユーロの大国の飼い犬になるよりも、一旦離脱するのがいいと思います。「分相応」という言葉がありますが、自国民に痛みを強いるユーロが求める政策、つまり法人税の上昇を抑制して、付加価値税を上げるよりは、ギリシャ現政権が打ち出している法人税の上げ幅を高くし、付加価値税の上げ幅を抑制する方が今そこにある痛みが少ない。

 ただし、成功するにしても失敗するにしても痛みはギリシャ国民に強いられるので、ギリシャ国民が国民投票でどうするのかは、対岸の火事ではなく日本にも起こり得るのだという気持ちで待たねばなりません。

 現政権が社会主義的政策を打ち出しているからと批判する声がありますが、これは聞く理由もないでしょう。どの階級にも平等な政策を考えると、自動的に社会主義的色合いが出るものです。これはどの国でも同じですし、私は資本主義者でも社会主義者でもありません。なら共産主義者か!と思われるかもしれませんが、何主義者でもありません。

 

ノンポリ不可避

 私は政治というものが頗る嫌いです。デカルトの言うように理性を正しく活用しても、汚れた言葉の押収。瑣末な議論に収斂されているように思います。

 結果的に理性の最高のステージがこの程度なのですから問題でしょう。実はこれは暴力の場であり、原暴力の再現の場だと捉えています。「平和」や「博愛」、「平等」をか掲げるまでは理解できても、実際は利益代弁者同士の小汚い罵声しか聞こえてきません。

 政治が利益代弁者によって誘導されてゆくなら、もはや「平等」の理念は崩れます。保守政党にしろ革新政党、進歩政党にせよ彼らに何かを託すことなどできません。古臭い保守主義を唱える人も、全てをひっくり返そうとする人も結局ポジションが入れ替わりチーム名が変更されるだけのことです。自民党が与党である限りは保守政党ですが、野党になったときは大凡保守主義を貫いたとは言えません。つまりデリダの脱構築がここで参考になるわけですが、自民党も民主党以下野党も政権の座に鎮座するや否や保守政党になり、野党に下野したら革新、進歩主義政党になるということです。

 ですから私はここに至って、保守だ革新、進歩だというのは言葉遊びに過ぎず、全く政治そのものに影響があるとは思えないと思うのです。こんな稚拙なTOPICSをマスコミはピックアップして大仰に伝えるのですが、私にとっては暖簾に腕押しです。全く興味がありません。

 政治の場で与野党再編などが取り沙汰されていますが、それだけこの国はジレンマを抱えている証拠です。政治の場に出てくるいかなる政党を選択しても市民には不利益が生じるのは見えていますから。逆に言えばマルチ・パーティー・システムは、ジレンマを前提にしているのですから(ワイマール体制)、このような不安定、不利益をこの国の民主主義は含むのだという覚悟が必要でしょう。ニュースを見るより覚悟を決める方が先です。だから、私はどのような否定的な意味に捉えられようと「ノンポリ」だと述べているわけです。

 私にとって唯一の政治的要素を含むTOPICSは、ハイデガーとナチスと言っておきましょう。これは20世紀が積み残した最大のジレンマですが、それだけに面白いし、人が人生を賭けるに値すると思います。