今の私 | Roscellinus Compendiensis

今の私

 長い間このブログを更新せずにいましたこと、またメッセージにお応えできなかったことに対して、非常に失礼いたしました。大変申し訳ないという気持ちでいっぱいです。

 

 ここにきてブログを再開しだしたのは、新しい取り組みと中間に起こった命をめぐる戦いが起きていたからです。これまでのような学術的なものが書けるかどうかも怪しいですが、人生には色々なことが起きるんだということを理解して頂ければ幸いです。

 

 まず、私の身に起きた災難ですが、意図せず熱中症を発症したままコンビニで買いものでもと出かけたら、見えないところで熱中症が悪化し、コンビニの店内で倒れました。ほとんど記憶がないというのが事実です。

意識喪失までに至り、ERの内科の先生に処置して頂いて「死」から「生」に引き戻されました。

 

 ハイデガーの文脈でうるさいくらいブログで生と死を論じてきましたが、実際にその間に身を置いた今回の体験は忘れることはないでしょう。

 

 今回の臨死体験を通してひとつハイデガーが話してないことがありました。それは哲学的死、科学的死、宗教的死を論じることで、この「生と死」は終わりだと思っていました。ところが現代社会においては、これらと同じくらい死を臨むとき、死を迎えたときに大きな要素が出てきます。それが「制度的死」とでも呼ぶようなものです。あくまでこの「制度的死」は私の臨死体験を少しまとめたに過ぎませんが、こうと思わせるには十分です。

 

 死が近づくと救急車や医師、看護師、家族というキーワードが出来上がるのは思っていた通りですが、実はこの裏で病院の会計事務や保険適用か否かの事務手続き、入院に際しての保証人の確保、普段から行っている銀行などの振込手続き等々、病人にとってはもう何が何かわからなくなるというのが実感です。これは今の社会システムが意図する最善策を行使した結果でしょうが、それでも足りていないことは病人からすると「死ぬ前にあれをやらねば~」、「あれは売却して遺産として」等などベッドにいては死ぬことすら許されないのが実情です。後悔なく、意図したままの死などないのが日常だということになります。

 

 問題は社会はこの人間の死に際しての利便性を図っているわけですが、残念ながら総務省がカード1枚で大丈夫!といったところで通用しないのです。死の側もそう簡単に総務省の手には落ちていないなと実感したところです。官僚としては、目的が市民生活の手続きの緩和だとしていても、死の前ではカードに死の烙印を押すことでしか利用性がない。「ゆりかごから墓場まで」大丈夫というのは嘘です。

 

 死は死の中核に行けば行くほど勢いを増し、こうなるとできることは現状ある制度を単調でも追っていくほかありません。残ってしまった残余は、もはや死後家族や裁判所、救済機関に頼るしかないのが実情です。