抽象 | Roscellinus Compendiensis

抽象

 人間が人生を全うするには、創造力と行動力が必要になります。個の有する地平を創造力によって拡大、変化し、それを可能とすべく具体的な選択、行動によって完成させていくという営みです。しかし、最近の三十代以下にはこの創造力と行動力、実践力のバランスをとれている人が極めて乏しいというのが実感です。

 

 原因は色々と考えられますが、一番大きい要因は教育とマスメディアの在り様だと思われます。そもそも学問そのものが創造力を可能とする抽象力をないがしろにし、具体的事実の把握と選択の方法論に固執している部分に問題の根はあります。こうなると自動的に個に求められる能力は創造力ではなく、本来創造力を支えるはずの行動力に限定されます。言い換えれば、目的価値を失った手段価値の優位性が生まれたわけです。当然、学問教育の側でこのような無目的な価値観の優位性が樹立されると、社会全体が無目的になり、表現は悪いですが社会に寄生するマスメディアも具体的価値ばかりを追うことになります。結果、社会全体に創造力を欠いた実践力だけの価値観が蔓延し、ただ目の前の選択に囚われる個を作ってしまうのです。

 

 小説を読むとき、あるいは映画を観るとき、芝居に接するとき、それぞれ一応の結末をもって終焉するわけですが、それは時間と空間の有限性によってなされるピリオドなわけで、完全な終わりを意味するものではありません。読者、観衆の創造力によって補完されてやっと終焉を迎えるのです。云々の終わりだったけど、本当は云々の意味や展開があったのではないかと想像するように芸術というものは創造されています。しかし、この創造力=想像力が現代人、特に三十代以下には乏しい。目の前の選択は早いが先がない。つまり、創造力を極めて要請する表現力を欠くのです。

 

 表現というものは具体的な事実に言及しながら、創造を抽象します。この抽象という能力が人類の誇りなのです。具体的事実を列挙し、それに対し判断を加え、取捨選択をするというのは比較的自動的にできるので容易です。ただ、それだけでは何も新しい価値や世界は産まれません。それは既存の世界で限界点を探す営みにすぎません。そうではなく、有限な世界から無限に拡がっていく世界を作り出すために何が最善かを考え、選択してゆくべきなのです。