亡霊 | Roscellinus Compendiensis

亡霊

 さて、今この真っ白なフォーマットに何を書くべきか考えています。書いては消し、書いては消しの繰り返しです。

 

 デリダはエクリチュール(書き言葉)について面白いことを述べています。書くという行為は、そのまま読むという行為に変化し、書き手は読者になりテキストは書き手を失って浮遊し、永遠に書き手は幽霊としてテキストに顔を出すというのです。最初このことをどう咀嚼すべきか悩みましたが、よくよく考えるとその通りだと思います。

 

 このことはブログにせよ何にせよ、書く行為を行うなら誰にでも生じることです。書くことそのものが常に先行すると考えても、同時的に書き手はテキストの読者になるわけです。もう少し考察を先に延ばすなら、書く行為はそれ自体考える行為なのです。なぜなら、書き手は常に考えながらテキストを書いているからです。ですから、デリダのいうように純粋な書き手などいないのです。

 

 そして、書き手の存在を感じるにはテキストに付随している署名という「痕跡」を道標にするわけですが、この「痕跡」はもはや書き手と読者を結ぶ懸け橋のようなものではなく、テキストを読む際に厄介な幽霊のようなものとして存在します。読者は永遠に原-書き手には辿り着きません。読者が意味付けを行おうとするまさにそのときに、厄介な幽霊という存在者として顔を出すのです。正すわけでもなく、認めるわけでもなく、指示するわけでもなく…。

 

 このようなデリダ的な書く-読むの関係に正しさを求めるのは、いうまでもなくナンセンスです。なぜなら、デリダのテキストもまた「痕跡」を認めるに過ぎないからです。

 

 そして、私もまた今日幽霊になったということになります。