アダム・スミス『道徳感情論』 | Roscellinus Compendiensis

アダム・スミス『道徳感情論』

道徳感情論 (講談社学術文庫)/講談社

¥1,944
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 『国富論』はスミスのポジションを見るに相応しい著作ですが、敢てそこではなくスミスが社会がどうなっているのか、人間はどういう生き物なのかを論じた『道徳感情論』を見てみましょう。

 スミスは人間がどのような存在者に還元されるかを考察します。そこで基礎として現れるのが利己心(self-interest)です。人間は自分の利益のために活動します。これが資本主義を支える原動力だということはお分かりかと思います。レッセフェール社会でスミスの経済感が妥当性をもつのはこのためです。

 しかし、経済活動を神の見えざる手(invisible hand)によって調停しよう、されるんだと言ったのもスミスです。こうなると、人間は利己心の塊で欲望を満たすまで突っ走るが、最後は神によって調和的世界に落ち着くという、なるほど予定調和説としてネガティヴなイメージをもたれるでしょう。そういう国富論のマイナスイメージも本作から読めば少し違ったイメージを受けるし、本書の後『国富論』で何が言いたかったかは少しクリアになります。

 さて、問題の核心は人間の利己心の調停です。利己心を上手く理論付けることなのです。そうすることで、『国富論』の下地が出来上がることになります。

 先程から利己心、利己心と煩く書いていますが、これは『国富論』に直結する概念なので良く把握しておく必要があります。だからと言って、哲学的な抽象論だと構える必要もありません。この点で、スミスは非常に現実主義者です。神の調停を引き合いにだしても…。

 人間の基礎には利己心があり、それが競争を生む。これは現代でも同じです。人よりもより給料が欲しいと欲するのはスミスの時代もまたそうなのです。しかし、この競争する利己心だらけで、利己的な社会などありはしません。ここまで言うと気付かれた方もおられるでしょうが、スミスはどうすれば競争と平穏が両立するのかを考えたわけです。

 確かに人間は利己的だが、他方で他者にシンパシーを感じることもできます。同情や同感ができるということです。ここで重要なのは、シンパシーの主役は単純に主観、主体という存在者ではなく、第三の存在者(公平な眼差し)だということです。単純に考えると主体→シンパシー→他者なわけですが、スミスは主体→第三の存在者→シンパシー→他者か、主体→第三の存在者×シンパシー×他者だと考えるわけです。

 少し抽象的になったので整理しますが、スミスは何らかの判断の物差しに第三の公平な眼差しに見、またそのような判断の蓄積を「一般的諸規則」と呼び、これが以後の判断の指針と考えたわけです。結果、根源的に利己心とされた人間は、この「一般的諸規則」によって軌道修正されながら、争いごとも減少すると考えられるのです。

 こうしてみると、スミスは利己心である人間が、同情や同感を通じてコミュニケーションし、そこに争いのない社会を見て取るのは案外楽だったかもしれません。「神の見えざる手」と神を出さずとも本書を引き伸ばせば、調和的的社会の構造を描くのに苦労はしなかったはずです。

 現代との比較で言うならスミスに分が悪いですが、個体から全体像を描いている分にはスミスの方が上をいってるのかもしれません。残された問題は、自分の中にある第三の存在者(声)の説明と、それに重きを置きすぎるという点でしょう。しかし、本書が『国富論』の基礎になっているのは事実で、本書を飛ばして『国富論』というのはアプローチとして難しいと思います。逆に本書から『国富論』へ行くのは案外楽です。