Roscellinus Compendiensis -6ページ目

データのレジティマシー

 最近人文科学系の分野は危機に陥っています。つまり、文学部はいらない論です。20年ほど前から声高に「文学部の廃止、解体」が言われてきましたが、この程国立大学に文部科学省から改めて「その方向性で(文学部、教育系学部)」と進言がなされ国立大学、特に定員確保の難しい地方の国立大学は苦渋を強いられています。

 世界的な動静で言えば文学部廃止・解体論は、どんどん進んでいるのですが、その進度と目標、方向性は日本の「それ」とは随分違っています。

 海外の場合は、一定の成果物を単独で作成(論文)できる能力がついていれば、敢えて文学部という枠に才能を縛り付けることはないという発想から文学部の呼称が消えていっているのですが、日本の場合は大きく異なります。

 日本の場合の廃止・解体論者のほとんが、文学部そのものが生産性を伴っていないというわけです。あるいは社会への貢献度といっても良いかもしれません。こういう人たちの提言を読んでいると、大凡この手の廃止・解体論がデータの不足、メルクマールの非存在を拠所としていることが分かります。つまり、文学部の成果物を計る基準もなければ、そもそも文学部にはデータすらない状況で論文を書き、それが成果物だといっているというくらいの勢いです。だから、科学=学問には相応しくないと。

 しかし、そもそもデータとは成果物が何年、何十年、何百年、何千年と蓄積されて初めて仮説根拠となるものです。ここで面白いのは、データ主義で科学の磐石性を主張するならば、それは過去のデータによって仮説証明されるわけで、現行の成果物そのものには何らレジティマシーがないことになります。いわゆる「印象評論」に過ぎないということです。

 誤解をされると困るので追記しますが、確かに社会科学系、自然科学系の学部の手法は仮説を立て、それを過去データと臨床データ(医学、薬学)で証明して初めて成果物として世に貢献するのですが、仮説を立てて論文作成を進めることそのものは、人文科学系の手法と変わりません。大きな差が生じるのは、社会科学系、自然科学系の分野が多くの一般的データ(共通認識)を保有していることと、そのデータが常に社会の流れとともに更新される点です。他方、人文科学系の場合は、論文作成に際して数値的なデータの存在はそれほど有効に作用しません。むしろ過去のテキストがこの場合、一定のデータになり、そのテキストを解体したり他のテキストと比較検証するわけです。
 
 ですから、社会科学系、自然科学系の扱うデータと、人文科学系の扱うデータは似て非なるものです。もちろん、いずれの分野も仮説を証明するという作業に遜色はありません。犬猿の仲である自然科学と哲学が一致することさえあります。

 データというとすぐに統計学的数値を思い浮かべる人が多いと思いますが、それは人文科学からすればシェイクスピアの格言とそれほどかわらない扱いなのです。それが正統性があるのものかどうかはこれも仮説なので検証する必要がありますが、社会科学系、自然科学系と人文科学系のデータの取り扱いの仕方の差異を考慮しないと不公正になるでしょう。

 では、人文科学系のメルクマールとはなんでしょうか?それを探すのが人文科学系学問の宿命だと考えます。私論では哲学の没した後、哲学は混乱していますが、医学論文にコネクトした斬新な論文も出ています。このような革新的な論文をデータ不足だ、社会貢献度が低いなどと揶揄する人は官僚に多くいると聞き及びますが、研究者にもなれなかった現場を知らない、底の浅い官僚に学問の危機感などないでしょう。
 
 かつてフッサールが『危機書(ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学)』を書いたときと同じくらいの危機が目の前にあって市民が応戦できないというのは、民主主義ではないと断言し得るし、もう少し時間をかけて各国立大学と話し合うべきでしょう。各国立大学も学問の自立性を見せ付けるチャンスだと思います。

『天使と悪魔』

天使と悪魔 コレクターズ・エディション [DVD]/ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

¥4,104
Amazon.co.jp

 非常に面白いです。ラテン語がバンバン出てきますが、気にすることはないと思います。日本語環境で観る方々にとって、字幕のクオリティーがどうかと問われたら概ね良好だと思います。

 本作は『ダ・ヴィンチ・コード』の続編的扱いですが、特に事前知識は必要ありません。完全に別です。なので気軽に観て理解できないということはありません。

 非常によく考え尽くされた作品という印象です。日本人にはローマ・カトリックの歴史や教義、組織編制などは知られていませんが、理解するにはもってこいの作品かもしれません。決して日本人にとってローマ・カトリックは遠くの存在ではありません。映画を飛び出して現実世界で見てみると、組織の最高顧問である枢機卿に日本人が選出されている事実もあります。

 キリスト教だけでなく宗教そのものに疎く、近寄りがたい環境に日本はありますが、ただ否定するだけではなく、理解しようという寛容性があればもっと世界は面白いものになると思います。

漂流

 ほぼ間違いなく、時代は蓋然的な時代に入っていると思われます。老若男女が漠然を不安を訴えるのは実に正しい時代認識です。リオタールは、五月革命の後、漂流する人間の時代だということを述べていますが、その漂流がここにきて日本だけではなくGDP上位国に等しく拡大していると思います。

 世界史を見る限り、人類は自由と平等を求めてきた。そして、その下地を革命と独立によって作り出し、人間に自由と平等という檻を与えた。しかし、それは時代ごとに伸縮を重ねて、結果現在の形となったのです。

 そして、今人々は形式上の自由と平等に恐れを抱き不安になっている。その原因を格差拡大やテロリズムに見ることに否定はしませんが、これはもっと奥深いものを見定めないと、今世紀中を通じて人々は不安から逃れることはできないでしょう。

 今世紀の不安とは、人々が求めてきた自由と平等の恩恵を受ける「場」そのものへの不信任なのです。もはや自由と平等を約束する民主主義への不安。民主主義に基づく自由と平等のパッケージでは、もはや人々の信任を得られない時代にあるということです。「アンシャンレジーム」とは、今や民主主義以前のレジームなのではなく、民主主義そのものであり、それに人々は不安になっている。

『ダイ・ハード ラスト・デイ』

ダイ・ハード/ラスト・デイ [DVD]/20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

¥1,533
Amazon.co.jp

 残念です。シリーズのなかで最も駄作。

 問題は脚本にあると思いますし、ブルース・ウイルスのクールなとこも見えませんでした。

 コレクターズ・アイテムという価値しかありません。非常に残念。

マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)/平凡社

¥1,677
Amazon.co.jp

 単刀直入に言って難しいです。

 「存在と時間」の延長線上にあるのは確かです。冒頭からライプニッツの命題である「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」①で本書は幕開けとなります。

 この命題を巡って存在そのものを究明しようというのが本書の狙いなのですが、ハイデガー自身がこの講義録において「存在と時間」の立場を放棄したかどうかは読者次第。ここが実に難解な部分で、思いついたようにあれこれと哲学史から哲学を引き出して存在への問いが究明されます。
 
 ただ、思いつきでも文章の整合性は取れているので、「存在と時間」とは違う意味で書けない作品です。読むだけです。私個人の私論としては、この時期のハイデガーは「存在と時間」の補完作業をしていると見ているのですが、完全に「kehre」したとも取れます。

 このように本書が難解なのは、第一に「存在と時間」との関係性が曖昧、第二にハイデガーが半ば哲学することで存在そのものへ、あるいは無へ迫れないと諦め加減でいること。そして、第三に詩と思惟の存在様態に固執し始めたということです。

 それらに加えるならば、ハイデガーのこの記述が反論を許さない次元にあるということも指摘できるでしょう。これは本書に限ったことではなく、ほとんどの著作が自己完結あるいは、謎を残して去るという特異なものであるので難解に拍車がかかるのです。

 初学者の方には難解だと思いますが、ハイデガー研究には必須の著作なので何度も挑戦してみてはいかがでしょうか?
 
 また、本書の付録にシュピーゲル紙の単独インタビューの議録があるので、そこから読んでいっても良いと思います。政治の問題はそれとして、ハイデガーの哲学のスタンスが、というよりも脱哲学のスタンスが読みとれると思います。ハイデガー自身がインタビューで述べていることですが、哲学の終焉が語られています(通俗的な)。これはショックになるでしょう。

 ①マルティン・ハイデッガー著、川原栄峰訳、2009、『形而上学入門』、p11 2l、平凡社

『ランボー 最後の戦場』

ランボー 最後の戦場 [DVD]/ポニーキャニオン

¥1,890
Amazon.co.jp

 ランボーの最終作。

 ランボー史上最も悲しく、残酷にできています。

 ネタばれするので内容は詳しく触れませんが、ミャンマーでの出来事です。私自身「おそらくそうだろうな」というストーリーになっています。

 いくら戦っても実りのないランボーの人生ですが、最後はようやく実家に戻れたようです。

 本作は単にバトルをみせたいという映画とは異なっています。そこを素通りすれば、ただのコンバット物に価値が下がります。

不幸への驚き

 最近どっぷりハイデガーに浸かってブログ更新できませんでした。

 ハイデガーは、そもそも哲学とは「驚き」だと述べていますが、非常に共感できます。

 しかし、一度驚いたら最後。臨終まで「驚き」の連続になってしまいます。実際に私がいい例で、毎年毎年、明けても暮れてもハイデガーに驚いています。

 趣味というか、自分なりの趣向があっていいのではないかと言われるかもしれませんが、「驚き」に人生を蝕まれている本人の側としては、やはり不幸というか、やりきれない思いです。

 来月に宮部みゆきの「ソロモンの偽証」に挑戦してみようと思っていますが、自分のなかでのハイデガーを決済してしまわないと先に進めません。

 ハイデガーとの出会いを損失とは思いませんが、深く入りすぎた…。

 誰にでもこういう「驚き」に出会うことがあるでしょうし、それが結婚に結実したり、離婚に収斂されるのかもしれません。

 ひとつ確信しているのは、「驚き」の数が不幸の数ではないということです。決して不幸が多産されるわけではない。「驚き」に出会ったら、正面から向き合ってもいいのかもしれません。幸か不幸かは後付けなのですから。

『存在と時間』をどう読むのか

 大変難しいテーマを掲げてしまいましたが、私は率直にハイデガーの政治的意図は感じられませんでした。

 もちろん「ドイツ大学の自己主張」なんかとなると、政治的立場を読まざるを得ないでしょう。

 しかし、こと「存在と時間」となると、むしろフッサールの現象学的立場とどれくらいの距離があるのかという読み方をした方がプラス要素は高いと思います。

 後から意味を付与する側は、自由が効くので何とでも言えますが、「存在と時間」及び一連の形而上学の検証はハイデガーの哲学(ハイデガーが哲学を見捨ててないなら)として、政治動向とは別物として扱わないと読む意味がないでしょう。

 途中で挫折した方も多いと思いますが、本文中でベルクソンの時間論に注意したり、カントはもう少しのとこまで来ていたとか、マルクスを擁護してみたりと、エピソードトークになる記述もあります。

 なので、一度や二度本書に挫折したからといって諦めないことです。最後まで読み進めれば何とかなるもんです。

師走近し

 師走が近いのですべての工程が忙しなくなっています。

 本当はメモ程度とはいえブログを書いてる余裕はありませんし、読書に費やせる時間も限られます。
 
 私は師走という言葉と意味するものが大嫌いです。完全に自分のペースを崩されます。

 思考停止とはいいませんが、それに近い状態で世間は動きます。

 世間に没入している人は年末年始休暇でペースを見直せるのでいいのかもしれませんが、常に世間からある程度の距離をと取らないといけない身分からすると、自分の立ち位置がわからなくなるのです。

 なので、毎年年末年始はナーバスなくらい普段のペースをキープしています。例えば読書ノルマを増やすとか、ライティング作業を進めるとか。ほとんどテレビは観ないです。テレビはペースを完全に崩しにきますから。

 

パラフレーズ

 最近の傾向としては政治一般に興味はありませんし、他のニュースにも興味ありません。ひたすら書籍と格闘し、考えこむだけです。

 こういう様態は人間には多かれ少なかれあるはすです。毎日同じ内容の出来事をとっかえひっかえされても嫌悪感を感じるだけです。

 いい山荘でもあればデカルトやハイデガーのように閉じこもって思索でもしたいところですが、なかなかそういうわけにはいきません。できることは、なるべく世間に没入しないことだけです。

 ニートの方なんかにアドバイスできるとしたら、時間に余裕があるのですから片っ端から読書してみてはいかがでしょう。大学、大学院レベルの知識量にはなるはずです。後はそれを活かせば万々歳。なかなかそうはいかないでしょうか?