アドルノと否定 | Roscellinus Compendiensis

アドルノと否定

 ヨーロッパの歴史は否定と同一化という乗り越えの歴史だったと言えます。プラトンにせよアリストテレスにせよ、混沌とした現実を否定してクリアにし、別の概念なり抽象概念に統一するわけです。

 このとき重要なのは、何事かを否定し統一してただ「見る」ことが人間の思考とか思惟という様態だということです。つまり、テオリア(観想=contemplation)がヨーロッパの至高の思考だということを指しているわけです。反対に現実的な実践(行動)、制作は(生産)は、別の概念とされます。ここは微妙なので説明が必要なのですが、アリストテレスは実践を倫理的、政治的行動に限定し、制作はそれとは異なる詩的な人間の行動様態に収斂されます。そして、ハイデガーにおいて決定的に思考という隠された真理へのアプローチは、詩作とか思索という言葉で呼ばれることになります。

 ここにおいてヨーロッパの思考の歴史はただ「見る」ことに留まるのです。ハイデガーは存在そのものにかけられているヴェールを取ることが存在へのアプローチだと意味深な表現をするのですが、ハイデガーもまたアリストテレス同様「ただ眺める」のです。

 なぜテオリアがここまで重要視されるようになったのでしょうか?それは真理というものが、すでに否定できない形で在ることをそれぞれの哲学者が気付くからです。しかし、それはすでに制作の行動の下にあるからであり、観察者の手が入っているので根拠はありません。だから、それは眺められるように命令することで存在し続けるのです。

 これはデカルトに顕著なように、真理というのものは最初にあってそれを人間がミスリードしないようにすることが最重要視されるのも、真理というものが眺められるために在るという世界観に依ります。そして、眺められるように実施されるのが制作であり、眺める態度がテオリアだということです。この点でアリストテレスは全ての哲学者の先駆者といえるでしょう。そして、制作(ポイエーシス)がハイデガーの後期に重要になってくるのです。いわゆる思索=詩作。この意味では、プラトン、アリストテレスから始まる歴史を解体すると言い放ったハイデガーもアリストテレスの世界観に引き戻るのです。

 ヘーゲルはどうでしょう?弁証法によって初期概念は否定され、その後止揚されて最初のものとは異なる概念をヘーゲルは見ます。しかし、これは上手い嘘です。真理は一度否定されるものの、止揚された真理とはここでは否定される前の真理と否定する真理のミックスだということです。つまり、何も変わってない。アイデアは優れているものの足りないのです。

 ハイデガーは言うに及ばず、ヘーゲルにおいても否定を掲げながら肯定に至ってしまったのがヨーロッパの思考です。その思考は元々真理や存在そのもがそこにあったかのように人を魅了し、その思考は真理の絶対的肯定に突き進みます。カントでさえ、真理の外にあるものは「物自体」だと言い真理と限定されたテオリアを主張します。

 これらの歴史を眺めるだけに限らず、転倒させようとしたのがアドルノです。特にアドルノの異質な思考が際立っているのが『否定弁証法』です。否定して成立した概念に至高性を与えるヘーゲルの弁証法自体を否定しようというのが本書の狙いです。大胆に言うなら、何も整理することもひとつにまとめる作業はいらないし、必要ではないというのがアドルノの主張です。

 一即多、多即一を認めないのです。アドルノはそれを「非同一的なもの」と呼んでいますが、まさにアドルノは統一概念を否定し、個々が結び付けられないように監視するわけです。常に弁証法とは否定精神に依らねばならないと。

 しかし、このアドルノの戦略に問題もあります。あくまで否定して否定して同一化を避けるという態度そものがテーゼになったり、真理になることです。ですから、アドルノの否定弁証法とは、あくまで同一性が頭をだしてきたらそれを打つというような形で存在することになります(存在そのものも否定されるが)。

 また、アドルノは弁証法をプラトンに見、ヘーゲルまでその弁証法は全く同一のものだと批判します。これを「肯定的な本質」と呼び、これを否定的にすることが同一化を避ける最善の方法であり、弁証法を肯定的なものから否定的なものへ解放するのだと述べています。しかし、先程も述べたように否定することを正しき態度すると、避けねばならない同一化と摩り替わるだけになります。なので、アドルノの打ち出した反同一化、否定弁証法というものは、非同一化に貢献するのであり、それ自体が真理や存在そのものというものではないということになります。あくまで同一化の方向に向かわないということです。そして、非同一的にあらねばならない。これがアドルノのヨーロッパの思考を相手にしたときの姿勢です。

 これはナチスのホロコーストに大いに影響を受けているとは明白ですが、仮にホロコーストが歴史上なくともアドルノの態度は変わらないでしょう。つまり、思考なりテオリアなりが成立する状況にさせないのがアドルノのスタンスだからです。ギリシャ=ヨーロッパ的な思考を否定するのがアドルノの目的意識なのですが、絶えず否定が否定であろうとする様態に留めるのがアドルノの考える弁証法です。それは静かでも、ヴェールに覆われているのでもなく、常に動き続けているのです。

 思考といいましたが、思考そのものがギリシャ=ヨーロッパ的な特異なもので、それが決定的に弁証法を肯定的な、全てを統一し整然と同一化するものだとアドルノは考えています。カントにせよヘーゲルにせよ彼らは一見、真理に対して否定的な側面を見せますが、それはアドルノにとってみれば、否定することで何かを肯定するという意味で肯定的な立場に安住し、テオリアにいるわけです。