デリダ『グラマトロジーについて』 | Roscellinus Compendiensis

デリダ『グラマトロジーについて』

グラマトロジーについて 上/現代思潮新社

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グラマトロジーについて 下/現代思潮新社

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 脱構築を語る上で外せないデリダの作品です。『エクリチュールと差異』よりもデリダのスタンスが分かり易いと思います。分かり易いと言いましたが、デリダの提案を全て読みきるのは大変です。そこは読者に努力を強いることになるでしょう。挫折したらそこで終わりです。

 挫折しないために何が必要かと問われれば、何も必要ありません。ニーチェ、ハイデガーの形而上学批判を知っておくのは効果的だと思いますが、本書の中で学ぶことで知識を補完することは不可能ではないと思います。

 本書でデリダが批判しているのはソシュールなどの音声中心主義であるのは明々白々です。この辺は誰が読んでも理解できます。書き言葉であるエクリチュールよりも話し言葉であるパロールの方がより根源的、あるいはエクリチュールは代理の関係、あるいはそもそも根源的ではない。

 ヨーロッパではプラトン以降ずっとパロールを重要で起源とし、エクリチュールというのはあってもパロールの二次的産物でしかないということでした。少々乱暴にまとめましたが、デリダは本書でプラトン以降のヨーロッパ文化、思考形態が隠したエクリチュールの根源性、重要性を説明しているのです。同時に思考=音声という仕組みを転倒させることによって、プラトン以降の形而上学の見直しを計ります。

 これらのパロールの優越する価値観、世界の中にデリダはエクリチュールの存在を指摘します。パロールの中にエクリチュールの痕跡を見て取るわけです。そうすることでパロールの一義性は揺れ始め、エクリチュールの存在が表に表れるようになります。ここで重要なのは、デリダがエクリチュールの優位性を提案し、パロールの存在を貶めるという簡単なものではないと言うことです。

 二項対立で満足するのであれば、パロールの前提に実はエクリチュールが存在すると言えば済むのですから。そうではなく、デリダは常にパロールの優越に対してエクリチュールがパロールの中に顔を出しているというわけです。ここが曖昧だという指摘はこれまで長い間言われてきましたが、最も脱構築とは何かということが現れていると思います。決していずれかの優位性を念頭には述べられていません。

 本書では他にレヴィ=ストロース、ルソーに言及しているのですが、ここでは代補(代理)の関係の考察が行われています。思考の代補は音声であり、音声の代補はエクリチュールだというものです。形而上学ではこの代補、代理の関係が抹消されていたのですが(真理は多義性は認めない)、デリダはこの関係を積極的に認めます。

 多少難しい話になりましたが、脱構築というデリダの言葉だけが先走っているのは事実です。一方に組するグループが反対勢力の抹消するための道具として脱構築は存在しません。そうではなく、デリダの頭にあるのは一義的な価値をもったものなどありはしないということです。

 長くなりましたが、日本語訳の本書の値段が高め設定なので買うには勇気が必要かもしれませんが、デリダが脱構築でどう考えているか知りたい人は必ず読むべきだと思います。