思い上がり | Roscellinus Compendiensis

思い上がり

 長年ハイデガーと向き合ってきて、最近は少しハイデガーに違和感をおぼえています。この違和感は、私だけでなく著名な研究者も同じようなことを述べていますが、ハイデガーには少し自己愛な部分を感じます。自己愛というにはもっと酷く、自己溺愛と言い換えた方がいいかもしれません。

 この溺愛は初期になればなるほど酷い。というのも研究者のなかで「kehre(転回)」という部分から溺愛ぶりは収まり、逆に誰にも何も発信しなくなり、理解を押し付けるという文体が消えていきます。この「kehre」というのは何かということは、非常に難しい議論になるので割愛しますが、ともかく初期のハイデガーは押し付けがましく、中後期になるとそれが影を潜めるということです。

 押し付けがましい最高の作品が『存在と時間』です。ここでハイデガーは本来的自己に戻って生きようというのです。簡単にこの部分をトレースしますが、人間は世間に頽落して非本来的自己として生きているが、それは本来の人間のあり方ではなく、人生の最終点である死を見つめなおして、その上で自覚的に自分と世間との関わりを矯正すべきだというけです。つまり何らかの解脱を求めるわけです。

 これほど押し付けがましい理論があるでしょうか?私もそうでしたが、ハイデガーを読んでいると頷くことが多くなり。完全に精神を支配されてしまいます。逆に言えばそれだけ魅力的だということです。カントに人生は左右されませんが、ハイデガーには簡単に人生の道筋を照らし出されるのです。ハイデガー自身はカントにも人生を、文化、歴史を支配する大きな力があると考えるわけですが、普通の一般市民には分からないことです。

 このようにハイデガーの負の側面を述べてきましたが、人間誰しも押し付けがましい時期はあります。それは先が見えてなかったり、才能だけで生きてみたり、孤独であったりと色々な要素が出発点になりえます。

 それが一般市民であれば誰かが注意するなり、誰にも相手にされなくなってくるにしたがって自覚的に自分の言動、行動を自粛するなりでよいのです。何も大仰に非本来的自己から本来的自己へという一般化の道を辿る必要はありません。

 いつかハイデガーの『存在と時間』を巡る負の側面をまとめないといけませんが、今回は道標にはなったかと思っています。