Roscellinus Compendiensis -9ページ目

人種差別について

 私はあらゆる人種差別を認めません。ある意味で人種差別というのは、人類が負ってきた「負債」なわけですが、他方で人類がこの「負債」を公平に清算しようと努力してきたものです。

 人種に優劣もなければ、優先順位もありません。レイシストが声高に叫ぶ差別表現は、何ら根拠のあるものではありませんし、レジティマシーのあるものでもありません。それは暴力です。

 ヘイトスピーチの取り扱いで日本でもレイシストに対する賛否両論がありますが、私はヘイトスピーチに汚濁と嫌悪感しか見ません。

 レイシズムにおける表現の自由というのは、本来の表現の自由を逸脱していると思います。裁判の一審、二審の判決が示しているように、ある民族への特別な蔑視などは許されざる蛮行だと思います。表現の自由とは、双方平等な環境でのみ主張できる権利であり、ヘイトスピーチのようなものは憲法が保障している権利を逆に濫用している。

 私はこれまでも人種差別をしたこともなければ、差別そのものを認めない方向性において「正義」を認めてきましたが、これからもそのスタンスは変わりません。

 世界、人類が人種差別撤廃の方向で進んでいることを、レイシストに提示するだけで十分だと思います。

デカルト『方法序説』

方法序説 (岩波文庫)/岩波書店

¥518
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 わずか百数ページで終わる誰もが読んでいる名著。 
 
 もはや説明の必要のない「理性の時代」の羅針盤です。

 過去に数えることができないほど読んだ本書ですが、今回気づいたのはデカルトの望む法、国家論。本書でデカルトは、国家や法というものは1人によって統治、運用された方が秩序形成にとって都合が良いと考えています。
 
 哲学上のデカルトの信念は流布されている通り、唯一普遍の真理によって類比の関係が秩序だって組み立てられることですが、この基本信念は法、国家観としても主張されています。

 「迷ったときにはデカルト」と、学部教育で何度も言われたことですが、こんなにコンパクトな書籍に未だ発見を見ることができるのには驚愕しました。

 まだ本書に目を通されてない方は、ボリュームも少ないので是非読まれれば良いかと思います。

G.スタイナー『ハイデガー』

ハイデガー (同時代ライブラリー)/岩波書店

¥1,153
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 何度読んでも著者の鋭い指摘は、読み手に緊張感を与えます。ハイデガー解説をテーマとする書籍の中ではひとつ上の存在だと思います。

 三部構成の一部に政治とハイデガーの哲学を置いて、そこでナチズムとハイデガーがクロスする部分、全く関係ない部分を見事に分けて提示する手法は、著者の膨大かつ深い知識と批評家としての能力の高さを痛感します。

 一部での実践的な考察を終えて、二部では「存在と時間」の徹底的な考察が繰り広げられるのですが、「存在と時間」という大作を非常に分かり易くキーワードを絞って逐語解釈しています。この部分は賛否あると思いますが、概ね常識的な解釈だと思います。

 三部では最も時間的に近いハイデガーを考察していますが、難解な後期ハイデガーの特徴が一部に引き続き提示されます。この三部は難度が高いのですが、非常に簡潔に説明がなされているので、ハイデガーを学ぶ人には大きな武器になると思います。
 
 強いて問題があるとすれば、一部、二部、三部ともに非常に深いところまで考察がなされるので、事前に一度「存在と時間」を読んでおく必要があると思います。それ以外は「秀逸」と評価するのみです。

小泉義之『ドゥルーズの哲学』

ドゥルーズの哲学 (講談社現代新書)/講談社

¥756
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 あまりにも不親切。
 
 著者には失礼ですが、本書で語られてることはドゥルーズではなく著者の考えに等しい。
 
 デリダ同様に語りにくい哲学だというのは割引材料ですが、全てのページを読み終えて「?」という感覚でした。
 
 また、副題に「生命・自然・未来のために」というのが掲げられていますが、そのキーワードに引っ張られて、肝心なドゥルーズの仕事がどのようなものであったかが未済になっています。「そこを聞きたい」という部分に近寄ると遠のくというイメージです。

 仮に副題をテーマに単独物として著者が書けば、それはそれで良本になるかもしれないと思います。しかし、本書は本末転倒になって読者を迷わす結果になりやすいだろうと思います。

古在由重、粟田賢三編『岩波哲学小事典』

岩波哲学小辞典/岩波書店

¥1,836
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 携帯できる哲学用語集。
 
 コンパクトで持ち運べるのは良いのですが、問題は各用語の説明の古さとややマルクス主義に傾倒していること。
 
 それでもプラトンからヘーゲル辺りまでは問題ないです。私は特に中世スコラ哲学の整理をするときなんかに重宝しています。

 哲学を学ぶ人は一冊は必要かもしれません。
 

アイドルの認識論的断裂

 アイドルというのは、神が予期した以上に大きい。それはもはや被造物を超えるかのごとく。
 
 私は日本のアイドル文化に認識論的切断を見ます。それはアルチュセールがマルクスに見たように。
 
 まずもってアイドルは、大衆、つまり日本人の全ての層に開かれることでステータスを獲得しました。それが山口百恵であり、ピンクレディーであり、キャンディーズというわけです。

 そうした土台の上に松田聖子や中森明菜が、アイドル性(アイドルの価値)を高めました。これで大衆へのアイドルのステータスは上昇し、そのステータスがそのままエコノミーの領域での支配権を確実にしたのです。

 その後、ひとつの展開が起こります。「スケバン刑事」というアイドルになるための登竜門(掟)が設定されたのです。斉藤由貴、南野陽子、浅香唯。つまり、「スケバン刑事」というアイドルの条件が生まれたわけです。これは明白にアイドルというものが世間のなかで十分に、しかも早く浸透するようにという、エコノミーの側の要求に応えたアイドルの生産装置です。「スケバン刑事」というアイドル生産装置の出現によって、大衆により早く、より魅力的なアイドルを供給できるようになったわけです。

 しかし、この後バブルが崩壊し、同時にアイドル生産装置もエコノミーの打撃で無力化し、大衆の期待に応えるアイドルも供給されなくなりました。つまり、エコノミーとアイドルが関連付けられてしまっただけに、エコノミーの受けた打撃に比例して、アイドルの生産装置が停止し、同時に供給量も減少したということです。

 このアイドル性が受けた打撃は大きく、この後しばらくはアイドルが大衆に供給されない状態になりました。

 そして、この後モーニング娘。というモンスターが大衆に供給されます。これは一般人がトライアルを受けて、合格したものがメンバーになり、INとOUTを繰り返す性質をもっていました。私はここに既にこれまで大衆に供給されてきたアイドルとの切断を見るのですが、まだここでは認識論的切断という状況には至りません。
 
 アイドル喪失以前の時代とモーニング娘。の違いは、再びアイドル供給装置が作られただけではなく、そもそも大衆に最初からアイドルの制作過程を見せることによって、一種のペット化がなされたことが新たな要素として指摘できます。すなわち、それぞれが自分の世界を有するわけです。

 このモーニング娘。は、ペット化など新しい要素を取り込んで成功します。徐々に層を拡大し、一躍大衆に受け入れられます。さらにエコノミーの側でもモーニング娘。は成功します。

 このモーニング娘。効果は、アイドルの歴史を塗り替えるのですが、この次に出るAKBの牽引的役割であり、まだアイドルとして主人公を担うには至りません。

 示唆したようにこの後AKBが出るのですが、AKBの場合、モーニング娘。同様にこれまでにないアイドル生産システムを採用します。それがAKBファンによる投票です。投票方式によって、自分のアイドルが成立するのです。
 
 ここに私は過去のアイドルとの認識論的切断を見ます。過去のアイドルは展示的性格を有していました。「みんなのアイドル」という風に。それがAKBに至っては「私のアイドル」に性格を変化させているのです。

 過去のアイドルというものは、みんなにとっての「大きな物語」だったわけですが、AKBという私的な志向性を有するアイドルになると、私にとっての「小さな物語」になるわけです。「私はAKBの~が好き」だというのは、過去のアイドル像から逸脱します。

 このようにAKBファンという言葉で区切れない存在がAKBなのです。だから参加型アイドルに熱狂する人が出てくるのは当然のことでしょう。一回性、私的な、共有を極力避けることで価値を増すアイドル。

 同時にエコノミーの側も、AKBというオリジナルをコピーしてどんどん「小さなアイドル」を乱立させることになります。いわゆるアイドルのバブル期。

 このようにアイドルといっても、通俗的な概念ではもはや捉えきれない状況が今だということです。そして、アイドルの性格が根本的に変化したということを見なければ、このアイドルバブル期のその後の見通しが立てられません。

 つまり、「小さな物語」の先にはまだ続きがあるということです。

 

TBSウォッチャー編『東京vs.大阪 徹底対決―保存版』


東京vs.大阪 徹底対決―保存版/ワニブックス

¥1,572
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 今日は軽めの紹介を。
 
 タイトルの通り東京の文化と大阪の文化の徹底比較。
 
 安易なものかと思ってかかれないのが本書の面白い部分。かなり細かい部分まで比較しています。
時間が余ってしょうがない人にお勧めです。

 ちなみに私は東京派です!

ベンヤミン『暴力批判論 他十篇』

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)/岩波書店

¥821
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 ベンヤミンの著書でおそらく最も読まれているであろう作品。「暴力批判論」の他に十篇のエッセイが収められています。どれもが独立しているので、任意の作品から読むことが可能です。

 やはり本書で核になるのは「暴力批判論」です。ページ数も多くはないので誰でも読めると思いますが、ベンヤミンらしいといえばそうなのですが、極度に抽象的議論が展開されるので行間を読み取るにはコツというか、センスが必要だと思います。

 ベンヤミンは、既存の法体系に暴力を見て取ります。法は暴力を調停、あるいは禁止するためのシステムだという属性を主張するわけですが、実際は暴力(原暴力)に対する暴力(二次的)でしかない。そして、法は法を維持するという目的に暴力を重ねると。
 
 これに対してベンヤミンは、法の暴力性に嫌悪感を示し、時代毎に更新されてゆく法を人間の抑圧装置と見なして法措定的暴力、神話的暴力という意味に還元します。結果、このような法措定的、神話的暴力に対抗、あるいは抹消するには根源的な神的暴力を対峙せねばならないと結論します。

 しかし、暴力を取り払うために、よりアプリオリな暴力=神的暴力を対峙させるという論旨には矛盾を感じます。後世デリダが指摘するように、暴力に暴力を対峙させるのではなく、暴力そのものが維持不能になるように「仕掛ける」方が論理的整合性があるでしょう。ましてや、神話的暴力の根源である神的暴力に遡行せよというのは読み手によっては論理破綻を感じるかもしれません。
 
 これはあくまで私の解釈ですが、ベンヤミンは前述のように原暴力(神的暴力)の登場を促しているのではないと思います。つまり、ベンヤミンの表現したかったことは、行き詰った世界のムードを打破するために「革命」が必要だと。現政権に対して革命という手段で息の根を止めてやろうというメッセージが含まれているように思います。しかし、歴史を振り返って分かるように、延々と文明社会は革命(自然状態でも)の繰り返しだったわけです。そして、結果が今、ここにあるムードであり、コードなのです。ですから、暴力あるいは革命の連鎖の抹消は不可能でしょう。革命は保守を生み出し、保守は革命を生み出す…。革命というキーワードで本書を読んでみても、やはり論理破綻と言わないまでも整合性を見て取るのは厳しいかと思います。

 しかし、本書に収められている作品は、どれもが議論するべき可能性を秘めています。それは解釈を待っているような。私は本書の評価は水準以上だと思います。

「同時に、あれらの法理論に共通する基本的ドグマ-正しい目的は適法の手段によって達成されうるし、適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる、というドグマ-の真理性についての問いが」①

①ヴァルター・ベンヤミン著、野村修訳、2013、『暴力批判論 他十篇』、p53 16l、岩波書店

小阪修平『図解雑学 現代思想』

図解雑学 現代思想 (図解雑学シリーズ)/ナツメ社

¥1,512
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 いわゆるポストモダンとは何なのかを図を使いながら説明する解説書。
 
 確かにこれほど簡単にポストモダンを説明する、解説書はありませんでした。どれもせいぜいハイデガー止まり。この点では読者としては非常にありがたい。
 
 しかし、説明が難しいポストモダンに振り回されている印象も拭えません。ほとんどのポストモダンの思想家(哲学という言葉を敢えて控えて)を網羅しているのですが、表面をトレースするだけの項目も目立ち、突っ込んだ理解を求める人は原典を読まねば欲求を満たすことはでいないでしょう。

 水準は満たしているものの、ページ数の制限もあったでしょうが、もう少しく詳細な構成を立ててもらいたかったという感想です。しかし、著者のフーコーへの情熱は、十分に感じ取ることができました。あと、図示は不必要だったと思います。

ポール・ストラザーン『90分でわかるデリダ』

90分でわかるデリダ/青山出版社

¥1,080
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 本書は元々自然科学の分野にいた著者が、デリダの主要概念を平易に説明したものです。先日紹介したデリダの解説書に比べ物凄く理解しやすくなっています。
 
 「脱構築」、「決定不可能性」、「散種」、「アポリア」というデリダの主要概念が極めて簡潔に書かれています。おそらくこれ以上の解説書があるとは思えない。それは不可能…。
 
 特筆すべきは構成。デリダとフーコーの論争、ヴィトゲンシュタインとデリダの対比がなされ、これも簡潔に文章化することによってデリダの特異性を浮き彫りにしています。
 
 これからデリダを勉強しようという人はもちろんですが、既にデリダを読んでいる人にも頭の整理をするには最適な一冊です。
 
 私は翻訳内容に多少躊躇しましたが、特に悪い影響は感じませんでした。この内容でこの値段なら買うべきだと思います。