危機書 | Roscellinus Compendiensis

危機書

 ほとんどの書かれている書物、文献は「危機書」だと思っています。

 

 「危機書」て何?というのが普通ですし、ここで取り上げるのはフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(通称危機書)』ではありません。これも危機を告げているので「危機書」ではありますが、もっと一般的な書籍、文献のことです。

 

 夏目漱石の作品も「危機書」ですし、松本人志の『遺書』も「危機書」です。何がいいたいのかというと、書かれた物というのはいずれも何らかの危機を示しているということです。

 

 凡そ書く行為は危機感を示します。でなければ、話す行為として近隣だけで瞬間的に伝わればいいのですから。そうではなくて、書く、書かれた物というのは、ある程度普遍的に起こり得る事象を対象にして、その先何年も広いエリアで読まれ続けることを前提にしているのです。危機感の反復を前提にしているということです。

 

 反復にいつも読まれるのが危機だということです。いずれの書物も広いエリア、長い時間、多くの人を対象とする限り、なんらかの危機を語っていると考えてもおかしくはないでしょう。

 

 都合の良いことや、小さいエリアの瞬間の出来事ならば話し言葉で済ませればいいのです。しかし、筆者の意図がかなり遠くまで及ぶ場合や人々の注意を喚起する場合は、書き言葉、書物という形で提示されます。

 

 語られる危機にはダイレクトな危機もあれば、抽象的な危機もあります。それは筆者の意図通り読むにせよ、自己流に読むにせよ構わないのです。重要なのは語られている危機が何かを読むということです。

 

 人間のアプリオリな様態かどうかは分かりませんが、これまでの歴史や街に溢れる書物を考えると、書かれている内容は筆者のであれ、読者のであれ危機感に違いないと思います。意図や行間の意味は危機感に溢れていますし、そうだからこそ書き言葉、「危機書」にしているとしか思えません。

 

 「危機書」的読み方が正しいとか、誤っているのが問題なのではなく、人を書く行為に向かわせることそのものが危機感に裏付けられているのであって、論理の飛躍はありますが、過去の作品は現代への積み残しであり、現代の作品は未来への警鐘なのです。