Roscellinus Compendiensis
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冷静

 人生という修羅場では、いつも危機がやってきます。こんなこと敢えていわずとも、誰もが知るところです。

 

 しかし、危機に対して常に冷静に対処するのは、並大抵のことではありません。とても難しいことです。

 

 危機に接すると混乱、恐れ、不安と数えきれないくらいのネガティヴワードが並びます。

 

 それらを眺めつつ冷静でいられる人を私は尊敬してやみません。自分ができないという裏返しです。

 

 危機もあれば救いの方法もあるのが人生だと理解していても、逆境に勝ち切るのは至難の業。

 

 最後まで諦めない。

極める

 どうも世間では飽きっぽい人が多い気がします。

 

 口調や行動をみると極めた人のそれなのに、極めたフリをしているだけなのです。こういうタイプの人は、揃って飽き性。落ち着きもなければ、耐久性もありません。

 

 人間なにかを本気ですることは極めることです。とても心身ともに疲れます。でも、やるんです。なぜ?他人を説得するためです。認めてもらおう、理解してもらおう、助けてもらおう、共に頑張ろう等々、これらは全て個々で完結するものではありません。

 

 人間本気なら自分を追い込みますし、同時に他者を巻き込みます。人間である以上自己完結などありません。自分を極めるというのは独我論ではなく、他者の理解や応援の上に成り立つものです。

 

 まだ自分を極めている途中という認識の人なら許せますが、極めてると思い込んでる人で、自己完結していると自信満々な素振りを見せる人は話になりません。そういう人のほとんどが自分の限界を知らない人です。

 

 この記事でいっておかねばならないことは、極めるとは自分の限界を知るところまで進むということです。

 

 そういう人少ないです。

首位独走

 われらの阪神タイガースが独走状態に入りました。

 

 正直、岡田体制には不満があったのですが、結果を出されては文句も出ません。

 

 明日も勝って、必ず「アレ」を取ってください。

危機書

 ほとんどの書かれている書物、文献は「危機書」だと思っています。

 

 「危機書」て何?というのが普通ですし、ここで取り上げるのはフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(通称危機書)』ではありません。これも危機を告げているので「危機書」ではありますが、もっと一般的な書籍、文献のことです。

 

 夏目漱石の作品も「危機書」ですし、松本人志の『遺書』も「危機書」です。何がいいたいのかというと、書かれた物というのはいずれも何らかの危機を示しているということです。

 

 凡そ書く行為は危機感を示します。でなければ、話す行為として近隣だけで瞬間的に伝わればいいのですから。そうではなくて、書く、書かれた物というのは、ある程度普遍的に起こり得る事象を対象にして、その先何年も広いエリアで読まれ続けることを前提にしているのです。危機感の反復を前提にしているということです。

 

 反復にいつも読まれるのが危機だということです。いずれの書物も広いエリア、長い時間、多くの人を対象とする限り、なんらかの危機を語っていると考えてもおかしくはないでしょう。

 

 都合の良いことや、小さいエリアの瞬間の出来事ならば話し言葉で済ませればいいのです。しかし、筆者の意図がかなり遠くまで及ぶ場合や人々の注意を喚起する場合は、書き言葉、書物という形で提示されます。

 

 語られる危機にはダイレクトな危機もあれば、抽象的な危機もあります。それは筆者の意図通り読むにせよ、自己流に読むにせよ構わないのです。重要なのは語られている危機が何かを読むということです。

 

 人間のアプリオリな様態かどうかは分かりませんが、これまでの歴史や街に溢れる書物を考えると、書かれている内容は筆者のであれ、読者のであれ危機感に違いないと思います。意図や行間の意味は危機感に溢れていますし、そうだからこそ書き言葉、「危機書」にしているとしか思えません。

 

 「危機書」的読み方が正しいとか、誤っているのが問題なのではなく、人を書く行為に向かわせることそのものが危機感に裏付けられているのであって、論理の飛躍はありますが、過去の作品は現代への積み残しであり、現代の作品は未来への警鐘なのです。

学位論文

 普通、大学の学部教育課程でゼミに入っていたり、必須になっていると、卒業し学士号を得るためには「卒論」と呼ばれる学位論文の提出、審査合格が必要になります。学部によっては学位論文なしで卒業できる場合もありますが、概ね学位論文の合格で学士号取得です。

 

 学位論文を書く、提出する、審査に合格するというのは、それはそれでなかなかの重労働です。四年間学んだ集大成をまとめあげるのですから容易ではありません。ですから、担当教員が論文作成の指導をするということになっています。

 

 しかし、ここに落とし穴があって、本来自分で考え、まとめあげ、書くという一連の作業に検閲が入るという事態に陥りやすいのです。云々の部分は削除して、この部分に文献の云々の部分を入れるようにと。

 

 担当教員側の言い分は、「学生とともに学位論文を作成する」なのですが、度が過ぎて論文の主役が考えることをせずに担当教員の指導のままに論文を完成させてしまいがちになってしまうのです。

 

 ですから、卒業しても自分が何を学んで論文にしたかを即答できる人は日本には少ないです。真面目な人ほど、担当教員の行き過ぎた指導を受け入れるからです。

 

 そうではなく、本来自分の四年間の集大成なのですから他人の手垢がついてない方が健全なのです。指導は最小限に、主役は学生側にというのが本来あるべき姿だと思います。論文には口頭試問という質疑応答の機会が設けられることが多いですので、疑義があればそこで明白にすべきでしょう。

 

 欧米では自主性の方がやや強い傾向にあると思います。日本の学部教育はあまりに過保護だというのが現実です。学位論文で戯言や適当なことを書く学生は論文審査の過程で不合格にし、次の年の機会を与えればいいのです。

 

 

 

崩壊前夜

 フレンド・ショアリングからの退場、サプライ・チェーンからの離脱。これだけで中国経済の未来は読めるでしょう。

 

 輸出によって富を獲得してきた中国にとって、前述の二つの退場は痛恨の極み。貿易がままならない状態で、現状の経済力を維持するのは不可能ですし、富に慣れ親しんだ中国人の欲求を満たすことはできなくなります。

 

 こうなると経済政策を転換して内需拡大しかないのですが、中国国内の賃金相場の急上昇と強度のインフレに政策が間に合うことはないでしょう。先進国の他の第三国への輸出という方法を模索はするでしょうが、アメリカを筆頭とする先進国への輸出に慣れた中国経済は、輸出相手国の市場規模の差に耐え切れないと思われます。

 

 中国人は歴史的に商売上手で経済政策に優れているというのは神話です。現代においてはそのような神話は通用しません。世界経済というのはそれだけ複雑で、一度枠から抜けると立ち直れなくなる仕組みになっているのです。

 

 経済政策で失策したとなると、習近平体制に及ぼす影響は予想以上に大きいものとなるでしょう。習近平は富を獲得して平均的中国人の生活水準を上げることを目標とし、国内で富を生産して分配する経済政策よりも手っ取り早く、より大きな富を得られる輸出産業に重きを置きました。それが今回の退場処分でゼロベースに戻されるわけです。

 

 富の獲得政策によって生活水準の上がった富裕層はもちろん、一般的な中国人には今更の内需拡大政策など受け入れられるものではありません。

 

 国民生活が困窮していてもミサイルを撃っていれば満足する国ではないのです。

 

 唯一、習近平体制にとって味方になるのは中国共産党の存在です。一党独裁の国家なので、民主化要求や経済政策への不満を秘密裏に葬っておけば体制に及ぼす影響は少ないでしょう。

 

 しかし、中国人に限らず何人でも生活にダメージを受けると予想外の展開を見せるということも事実です。国家体制の維持よりも、生活水準の維持が個々の市民感情のバロメーターになります。

 

 頼みの綱のロシアはもはや崩壊寸前ですから、中国もそれに準ずるのか否か習近平の能力が問われるところです。

太宰治『富嶽百景・走れメロス 他八編』

 

 

 太宰文学において『斜陽』や『人間失格』が道標なら、本作に収められている短編は太宰文学の可能性を無限に広げる濃密な作品群。

 

 前者が太宰プロデュースによる企画された価値ある作品に対して、後者、本作品群は純粋に太宰治という作家の能力を肌で感じられます。

 

 『走れメロス』や『駆け込み訴え』は誰もが知るところですが、特筆すべきは『女生徒』。少女の感受性を微細な点まで表現し、太宰にしか書けない少女の何気ない在り様が提示されます。この点で太宰治のファンに女性が多いのは必然かもしれません。

 

 この夏、一冊読むとしたら少しこそばゆい本作かもしれません。

危険なアウトプット

 前回、インプットに囚われているとアウトプットが疎かになり、就職活動などのシーンでは不利になるといいました。

 

 今回はアウトプットが先行した時の危険性を語りたいと思います。

 

 バランスの良い人材というのは、ほどよく知識がインされ応用展開してアウトできる者です。インは大きすぎず小さすぎず、アウトはインされた知識や世界観に基づいて他者にアウトされます。ですから応用展開されたアウトプットは、個々人のインプットに紐づいているので他者にも容易に遡行できるのです。理解されやすいということです。

 

 フッサールは意識とは常に何かへの意識だといい、それを「志向性」と名付けました。「志向性」というとイメージしにくいですが、ハイデガーはそれを「関心」と言い換えています。つまり、何かをいうとき、考えるとき、それは何かへの「関心」が存在するということです。まさにアウトプットされるものは、様々な「関心事」=その人の世界観を紐づかせて示すのです。

 

 だからアウトプットのバランスの悪い人というのは、「関心事」が不足した状態で無理にアウトプットするので、本来紐づいているはずの知識=世界観とアウトプットされる内容が切断されやすく、他者には遡行し根拠を検討することができず、独りよがりな戯言に終わってしまうのです。

 

 他者に適正なアウトプットを行うには、相応の知識のインプットが必要なのです。前回はインプットに頼り過ぎる時代は終わったといいましたが、アウトプットするためには最低限コミュニケーションを成立させるだけのインプットは必要です。

 

 アウトプットするとき、受け手はアウトする者の世界を見ているのです。

 

参照記事

危険なインプット | Roscellinus Compendiensis (ameblo.jp)

抽象 | Roscellinus Compendiensis (ameblo.jp)

『おーいお茶 濃い茶』

 

 
 

 

 すっきりするならこれ。お茶の王道。

 

 知らない間に機能性表示食品になってました。肥満対策にはいいかと思いますし、私はケースで買いました。

ドゥルーズ『差異と反復 上下合本版』

 

 

 ドゥルーズによる西洋哲学史の解体新書。非常に難しいです。

 

 翻訳の問題もありますが、仏語版、英語版、日本語版と読んだ中で邦訳が一番難解でした。ターゲットになるのは一通り哲学史を理解して、そろそろ反哲学史でも考えようかという人です。初学者が読むと何が何やら見当もつかず、ただ混乱するだけに終わると思います。

 

 本書でドゥルーズが言いたいことは、「同一性」を真理、あるいは「同一性」を求める社会や歴史は嘘で塗り固められたものであって、本来世界は「差異」によってズレが生じる世界だということです。

 

 誤解を恐れず簡単に説明しますが、ある同じ行動を反復するにしても、その都度状況が異なり結果にもズレ、「差異」が生じます。これをプラトン以降、西洋の歴史は隠蔽してきたというのです。

 

 プラトン以降の「反復」とは、「同一性」の反復。すなわち、オリジナルを何度もオリジナル通りに「反復」することが正しく、そしてそれが「同一性」の原理だということです。ドゥルーズはそうではなく、オリジナルと複製の間に生じるズレを肯定します。複製と言いましたが、これはオリジナルの「反復」のことです。「同一性」にではなく「差異=ズレ」に事実的価値を認めるのです。

 

 例えば、ドゥルーズにとって資本主義とは「同一性」の原理そのものなのです。人は労働者として、会社員として生きることを目的とし、産み出される商品は予定されている何某として名付けられ、売られる。そして、予定されているように資本家のもとにマネーが留保され、他方で社員に定められた通りの給与が渡される。この流れが「反復」されることが正しく、一連の流れにズレが生じることは許されないのです。これをドゥルーズはプラトン以降の「同一性」の原理だと批判し、むしろ同じことを反復して「差異」が生じるという事実の復権を告げます。人という多様な生き方をできる存在者を会社員や労働者に還元して、同一な者とするのは隠蔽に過ぎなく、「=」の関係は成立しないというのがドゥルーズの主張です(後に資本主義が本当はズレによって成立している分裂病だということを暴く)。

 

 この辺は読者がドゥルーズを乗り越えて創造的理解をするべきだと思いますし、ドゥルーズの主張するように積極的に読むことの「ズレ」を受け入れるべきでしょう。

 

 

 

 

 

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